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№41【VRの進化と仏教】

 

 今回とりあげるのは、

 法蔵(六四三~七一二)

 という唐の時代のお坊さんの話です。

 一般にはあまりなじみのない人ですが、仏教の研究者の間では名前を知らない者はいない有名人です。

 かれはのちに南都六宗の一つに数えられる華厳宗東大寺がこの宗派です)の中国における第三祖として、中国史上最強の女帝・則天武后に仕えていました。

 ある日、法蔵は則天武后に呼ばれ、仏教についての一つの問いを投げかけられました。

 それは、

仏教の縁起の世界観とはなにか?」

 というこの独裁者がかねてより関心をいだいていた事柄にまつわるものでした。

 以下は、そのとき法蔵が演じてみせたパフォーマンスに関する逸話です。

 

 則天武后の言葉を聞くや、法蔵は「いまからおみせしますので、少々お待ちを」

とことわると、弟子を集め十枚の大きな鏡をもってこさせた。

 かれは、則天武后の目の前で、鏡を上下左右に組み立てさせ、四角の空間をつくりあげます。

 それが終わると、法蔵はあらためてその空間の内部に小さな像を置くように弟子に命じた。

 像の位置をたしかめると、自身で燈火をかざし、鏡の空間内部を照らし出した。

 すると、そこには像の映像が目にもまぶしく無限反射してゆく不思議な世界が出現した。

 法蔵はやおら則天武后に向き直ると、

「これが仏教の縁起の世界そのものです」

 と説明し、女帝を感嘆させた……。

 

 どうでしょうか?

 このとき法蔵が説いたのは、

「相即相入」の教え

 と呼ばれるもので、華厳の哲学のみならず、大乗仏教の「空」思想の世界観の核心にあるヴィジョンでした。

「もの」という「もの」が実体を欠いた相互反射のなかに「自己同一性」(セルフアイデンティティ)を解体させる、

「ゼロの汎神論のメカニズム」

 をこれほど鮮やかに教えてくれる逸話(プレゼン伝説)もほかにないでしょう。

 

 これまでのコラムでふれたように、「縁起」とは「関係」のこと、そこでは「世界」は実体を欠いた「もの」同士の関係のネットワークの別名になります。

 VRのリアリティの技術の進化による「現実」感覚の変貌はよく論じられます。

 が、その「変貌」の哲学を視覚的に、小学生にもわかる説明で教えてくれる人はなかなかいない。

 しかし、それは工夫次第では簡単、「鏡」を用いればよいのです。

 今日では、VRの技術を用いれば、実際の鏡をもちだす苦労もいらないでしょう。VRの空間に「鏡の小部屋」を作り出すだけでよい。

 VRの時代の何であるかを語るのに文章は無力です。

 VRの時代はVRの時代みずからをして語らしめよ。そして才気あふれる語り手たちは、VR体験の日々の蓄積を通じてわたしたちの間にすでに出現しているのかもしれない。

 きたるべき「ゼロの汎神論」の世界、その「正体」は無数の人々がユーザーとして体験する仮想の「鏡の小部屋」が明かしてくれる。

 IoTの時代とはユーザー一人一人がそれと気づかず「小さな法蔵」を演じる新しい世界かもしれません。 

※次の更新は5月4日です。

 

 

 

 

 

№40【脳内現象と仏教】

 

 脳内現象と仏教――なんの関係があるのかと思われるかもしれませんが、そうでもありません。

 それどころか、このブログのコラムがあつかってきた、

「空」の思想、

 すなわち、

「ものは固定的で不変の実体を欠く」(ゼロである)

 という思想の由来について考えるとき、それが、

「世界は意識の産物である」

 という古代インド人の抱いた考え方を土壌に生まれてきたのだということがわかってきます。

 意識、つまり脳内現象の産物ですね。

 

 そのことをよく示すのが、『十地経』という経典の、

「三界は虚妄にしてただこれ心の作なり」(註―「三界」とは「われわれが住むこの世界」のことです)

 とか、『大乗二十頌論』のなかの、

「一切はただ心のみ、幻の相のごとく生じる」

 といった言葉の数々で、これらは一般に「唯心論」という考え方にカテゴライズすることができます。

 

 また、右の経典の文章にいう「心」は「意識」という用語に置き換えることができます。

 さきほどのべた通り、現代の脳科学では、「意識」はいわゆる脳内現象――正確には脳のニューロン相互の発火現象(スパイク。瞬間的な電気的変動)――の産物だとされていますので、この「唯心論」は、じつは、

唯脳論

 をさしていることがわかります。

 つまり、われわれの見る世界(われわれが「世界」と考えるもの)は、しょせん人間の「心」=「意識」=「脳内現象」の作品である、というわけですが、すると、ここに一つの認識が訪れることになります。

 それは――たいていの人間が感じるところですが――人間の心というものがじつに不安定であてにならないしろものだということです。

 

 その一番の例と思われるものが「記憶」という心の作用で、「記憶はウソをつく」という言葉がある通り、年月とともにそれと気づかず変化してゆかざるを得ません。 

 二十年も昔のある日のことを分単位で鮮明に憶えている人間の言葉が「ほんとかよ」と逆に疑われたりするのも、ここからきています。

 同様に、「好き嫌い」の感情、これも「愛情は冷めやすい」と言葉にもあるように「変貌」をまぬがれません。また初めはやっかいで苦痛に感じていたことが慣れとともに平気になるのも、よく経験するところです。

 それやこれやで、そうした「心」が作り出す「世界」とはそもそも何なのだ、という疑問が人の心をとらえることになります。

 

そして、ここに、一連の推論の流れ、

 世界は心(「意識」)の産物である。

  ↓

 それはたえず移ろい動いてゆく(「無常」である)。

  ↓

 そこには固定的で不変の実体などない。

  ↓

 世界の実体はゼロに等しい。

 が生じ、仏教の「空」思想の骨格が形作られてゆくことになります。

 

 周知のように「唯脳論」という言葉の生みの親は解剖学者の養老孟さんです。

 養老先生の本には、

「わたしの言っていることはすべて仏教の経典に書いてある」

 といった意味の言葉がちょくちょくでてきます。『バカの壁』など先生の著書に親しんだ人々ならばごぞんじの方も多いかもしれません。

 というわけで、世界を「空」とみる「空」思想と「唯脳論」とはどこからみても相性が悪くない。いや、むしろ大いに良いのですが、この良さこそがクセモノになります。

 というのも、こうして「唯脳論」が「空」思想を迎え入れたまさにその瞬間、たちまち思わぬアポリア(難問)が生じることになるからです。

 それは、思考の誕生プロセスをめぐるきわめてシンプルな問題、

 

「世界は空である」という人間の考えはどこから生まれているのか?

 

  という「空」の思考の生みの親についての問題、つまり問いかけにまつわるアポリアです。

 

 一見して明らかな通り、この問いに対する答え自体はそうむずかしくはありません。むしろ簡単、答えはわれわれの脳です。われわれの脳が「世界は空である」という考えを生みだした。ところがです。「空」思想によると、この脳もまた「空」なのですねェ。脳もまた「もの」、世界の一部ですから、これは当然の話です。

 すると何が起きるか?

 論理的な無限後退です。

 なるほど、われわれの脳は空である。

 よし、それは認めよう。だが、「われわれの脳は空である」と考えるそのわれわれの脳も空である。そして、「『われわれの脳は空である』と考えるそのわれわれの脳も空である」と考えるわれわれの脳も空であり、さらに……と文字通りきりがなくなってくる。

 そう、まさにこれこそが、「空」のもたらす、

「世界の〝底抜け〟化」

 の問題にほかなりません。だれでもいい、「世界は空だ」と言った瞬間に、世界は底が抜けるのです。

 

 では、仏教はこれに対してどんな論理的な解決、処方箋を示せるのか?

 結論からいえば、何も示せません。

 示しようがないわけです。答えを示すとは、答えを論理立てて説明するということですが、論理を追求しようにも、相手は追えば追うほど逃げてゆくのですから。 

 しかし、そうは言っても底の抜けた世界は人々を恐れさせます。

 そういう場合、「一切のとらわれからの解放」が建前の仏教としては「とらわれるな」と言うのがブッダ本来の立場なのですが、これは言うは易く、だれもが簡単にできるものではありません。

そこで、仏教がわれわれ凡夫に持ち出すのが、

「方便」(仮の教え)

 という奥の手です。

 底の抜けた世界を仮に何かにすがることでやりすごしなさい、というわけですね。

 そして、すがる対象はなんでもかまわない。そう教えられたとき、昔の人々は、たいていの場合、神様を選びました(浄土仏教阿弥陀仏密教大日如来は宗教学的には「仏」の名をもつ神様です)。

 

 ちなみに、「空」が底を抜く対象に制限はありません。

 したがって、実体としての「無」の底も抜いてしまう。

 いや、それどころか、「空」そのものの底すら抜いてしまう(№38「ポスト・トゥルース仏教」のコラムを参照)。

この意味で、「空」の世界には、観念的にはニヒリズム虚無主義)は存在し得ません。

 そう、「空」はなんとニヒリズムの底すら抜いてしまうのです。

 それは文字通り、あらゆるイズムをカッコに入れることで、

「イズムなきイズム」

 の次元へと溶かしこんでしまうのです。

 ただ、中国の古い言葉に、

「大巧は大拙なるがごとし」

 という言葉があります。

 わたしは、「空」を肩の力を抜いて呼吸できるようになった人(どこかにいるのでしょうか?)の相貌はかぎりなくニヒリストのそれに似てくるような気がしてなりません。

※次の更新は5月1日です。

№39【ライザップと仏教】

 

 ライザップは仏教的にどう考えるべきなのでしょうか?

 なんだかバカみたいに聞こえるかもしれませんが、けっこうホンキモードな論点をふくんでいます。

「色即是空」

 という言葉があります。

 葬式でよく読まれる『般若心経』がメインフレーズにしている四文字熟語です。

「色」はインド語の「ルーパ」の漢訳(中国語訳)で「形あるもの」、 ここでは、とくに身体をさしますので、「色即是空」の四文字で、

「身体は空である」、

 したがって、

「そんなものにとらわれてはいけない」、

 つまり、

「コミットしていけない」

 という戒めの言葉になります。

 

 こう書くとこじつけと受け取られるかもしれませんが、ブッダがすべての修行者がめざすべきゴールだとしたのは、そもそも、「一切のとらわれからの解放」すなわち、

「ノン・コミットメントの徹底」 にもとづく「悟り」の境地でした。

 そこにあったのは、人間はとにかく「自己愛」の強い生き物だという認識。

 では、「自己」とはそもそも何か?

 それを形作るのは、せんじつめれば、「心」と「身体」、つまり「心身」と呼ばれるもの。

 ブッダによると、身体(「色」)は「心」とともに、もっともコミットしてはいけないものになった。

 これはブッダの死後、仏教の最も基本的な教えになりました。

 

 ところで、ブッダは、出家して修行さえすれば、だれでもこの「悟り」、つまり究極の解放の境地に達して救われるとしました。

 じゃあ、これに対し出家修行をしなかった人間はどうなるのか?  かれらもまた救われるのでしょうか?

 じつは、経典を読むかぎり、ここまでくると、

「ダメにきまってるでしょ」

 がブッダの答えでしたが、安心してください。

 こうした考えの是正をめざして、ブッダが亡くなって数百年たった頃、革新派の仏教が立ち上がりました。

 これがいわゆる大乗仏教で、日本仏教の主流となった学派です。この学派のお坊さんたちは、ブッダ以来伝統になっていた出家至上主義をエリート主義だと批判し、出家しようがしまいが万人が救われる資格をもつと説きました(「大乗」は「万人を救う大きな乗り物」という意味の語です)。

 つまり、ライザップのCMにでてふくらんだお腹を悲しげにさすったり、へこんだお腹を「どうだ」とばかりドヤ顔で示す森永卓郎さん(べつに森永卓郎さんでなくてもよいわけですが)も救われる資格があるということになった。

 こう書くと、何だかひどくラクチンなようですが、誤解のなきよう。ただ何もしなくてもよいというわけではありません。 

つまり、あくまで救われるための「資格」を得たというそこまでの話です。

 そのうえで、そうした有資格者となった人々が、

「救済の境地に至りたい」

と心から願う。そのとき目的達成のために不可欠とされた作業、それが、「世界は空であること」を悟るということでした。

 

「空」思想を説く大乗経典に、

「諸法皆空」(※「諸法」とは「世界」のことです)

 とか、

「諸法空相」

とか、「空」の「ありのままの真実性」の意味をこめて、

「諸法実相」

 といったフレーズがさかんにでてくるのはこのためですが、では「悟る」ためにはどんな心がけが必要か?

 そのヒントとなる言葉が『華厳経』にでてきます。

「初発心時、便成正覚」(しょほっしんじ、べんじょうしょうがく)

なにやらむずかしげな文章ですが、「初発心時」というのはゴールへ一歩でも近づこうした瞬間、「正覚」は「悟り」の意味ですから、文章全体で、

「悟りをめざして近づこうと日々思うことが悟りである」

 そうすれば、ライザップであろうが何であろうが、「とらわれずにとらわれる」、つまり、「とらわれない心のままにジムで汗を流せる」境地に達せるということになる。なるのですが……うーん、これまたややこしそうというか、「べつにとらわれたっていいじゃん」という感想もわいてきますが、そう考えるのはわたしが凡人だから。

 カメラの前で全国民にむかってお腹をさらす「覚悟」がもてるような人はまたちがうのかもしれない。

 つまり森永卓郎さん(べつに森永卓郎さんでなくてもよいわけですが)は人間にあるはずの「一線」を本当に「突き抜けて」しまっているのかもしれない。

 興味のある方は直接ご本人にご確認ください。

※次の更新は4月27日です。

 

№38【ポスト・トゥルースと仏教】

 

 禅には、

「不立文字」

 といって、究極の真理は言葉では表現できないという教えがあります。

 また、

「月を見たら指を切れ」

 という言葉もあり、これは『首楞厳経(しゅりょごんぎょう)』という経典にでてくる言葉ですが、ここにいう月は真理、指とは言葉をさします。

 要するに、

「真理をつかむのに言葉は必要である。しかし、真理は言葉によって仮に表わされたものにすぎない。そのことを忘れて言葉で表わされたものを真理そのものだと思うのはまちがいである。真理を悟った者は、すみやかに言葉を切り捨てなさい」

 と語っているわけですね。

 

 大乗仏教における「真理」が、世界が「空」であること、すなわち、「世界はゼロである」という宣言であることはすでにくりかえしのべた通りです。

 しかし、この「空」もまた言葉にほかならない。

したがって、この「空」もまた「空」のメカニズムによる、「ゼロ化」の運命をまぬがれない。

つまり、「空」は神聖な真理ではあるが、「空」という言葉自体はそれを仮に表現したものにすぎない。一度「空」を悟ったら、悟った者は「空」という言葉は捨てねばならない。

これは中国のお坊さんが言った「空を空する」という境地。

要するに、「空の底抜け」の世界ですが、仏教の教えがもつこうした、

「言葉のとらわれへの警戒」

 が結果として発達させることになったのが、経典の逆説的な表現法です。

 

 実際、禅宗が重用した『金剛般若経』などはそうした表現だけで成り立っている、ほとんど「奇書」と呼べる経典だといえるかもしれません。

 その表現のいくつかを紹介すると、

「『ブッダによって説かれたこの世界は世界ではない』とブッダは言っている。

だからこそ、それは世界と呼ばれる」

 また、仏教は「悟り」のことを「智慧の完成」とも呼びます。これについても、

ブッダによって説かれた『智慧の完成』は『智慧の完成』ではないとブッダによって説かれている。

だからこそ、それは智慧の完成と呼ばれるのだ」

 さらに、仏教で「真理」一般を意味する「法」についても、

「『あらゆる法というものはじつは法ではない』とブッダによって説かれている。

だからこそ、それはあらゆる法と呼ばれるのだ」

 

 こうした表現が読み手あるいは聞き手の言葉へのとらわれの粉砕をもくろむためになされたものであることは、いうまでもありません。

 江戸時代の有名な禅僧に白隠(一六八五~一七六八)という人物がいます。

 臨済宗の中興の祖といわれた名僧ですが、人を食った毒舌の持ち主としても知られていました。

 白隠は禅の教えを画にした「禅画」をたくさん残しましたが、その多くは達磨(だるま)和尚という中国に禅を伝えたとされるインド人の坊さんの肖像画です。

 達磨和尚は日本のダルマの置物のモデルとなった人物ですが、白隠は自分が描いた達磨の肖像画の一枚に、わざわざ、

「これは達磨ではない」

という自筆の言葉を書き入れた。

 これはシュルレアリスムの画家のマグリットがパイプを描いた自分の絵に、

「これはパイプではない」

いうタイトルをつけた話を想起させますが、まさに「指月の教え」の禅画ヴァージョン、「言葉への執着のいましめ」

を説くためになされたものです。

 

 さらに経典や画だけではありません。

 禅のお坊さんがおこなった禅問答。文字通りチンプンカンプンの代表とされる問答ですが、その目的も、わざわざ相手を混乱させるようなことを言って、相手を言葉へのとらわれから解き放ち、すみやかに目覚めへと導くところにありました。

 最近は仏教ブームとかでどの宗派のお坊さんもテレビのバラエティ番組にでたり、くだけた本も書くのもめずらしくなくなりました。

 が、それ以前は仏教のお坊さんのなかで最もおしゃべりで最も本をたくさん書くのは禅宗のお坊さんと相場がきまっていた。

「不立文字」を説く宗派の坊さんがしゃべり上手とは、とよくからかいのタネになりました。 

要するに、言葉の空しさを言葉を尽くして説くのが禅の「悟り」をうながす手法だったというわけですが、人間は結局言葉なしには生きてゆけません。

 

 最近、「ポスト・トゥルース」という言葉が世界的な流行語になっています。

 イギリス人のジャーナリストたちが広めた言葉だそうですが、二十一世紀の言説空間はSNSなどのテクノロジーによって底の抜かれた空間です。

 言葉のもつ「本来的な限界」、これへの不信はときとして「なんでもアリ」に結びつくシニシズムを生みます。

 そういえば、二〇一一年三月の福島原発事故のあと、福島県放射能汚染について大手メディアの一部もふくめてセンセーショナルな報道が目立つなか、他県との比較調査をもとに汚染の数値データについて最も冷静で「実証的な」報告をおこなっていたのが福島県在住の禅僧の玄侑宗久さんでした。

ポスト・トゥルース」や「フェイク・ニュース」といった言葉が流行するなか、言葉への適切な距離を保つスキルの持ち主は、案外、言葉が人間の思考にもつ意味を知りつくした禅のお坊さんのなかに見つかるかもしれませんね。

※次は4月20日の更新です。

№37【日本3・0と仏教】

 

「日本3・0」とは、日本のごく近い将来に予想される革命のことです。

 二〇一七年の一月にソーシャル経済ニュース「ニューズピックス」の編集長佐々木紀彦さんが『日本3・0/2020年の人生戦略』という著書でそのコンセプトをまとめられました。

 土台となったのは、社会学者の竹内洋さんが提唱した「第三のガラガラポン革命」で、第一の明治維新、第二の敗戦に匹敵する革命が日本で始まろうとしているという見方。佐々木さんは二〇二〇年から二〇二五年までの間にそれが起きると考えています。

 面白いのは、佐々木さんが「日本3・0」の変動を勝ち抜くために重要なのは、

「〝テクノロジー〟と〝歴史〟を深く知りぬくことです」

 と著書のなかで強調していることです。

 佐々木さんによると、この変動にむけてカギとなるのはAI、ロボット、IoT、ビッグデータによる第四次産業革命の諸分野だという。

 私のブログのいくつかのコラムでは「仏教」の歴史を議論の切り口にとりあげています(コラム「ポリティカル・コレクトネスと仏教」、「ポピュリズム仏教」など)。

 IoTと仏教の「空」思想との相性の良さや日本人のロボット好きと仏教の「からくり人体」観との関わりについても、それぞれのコラム(コラム「IoTの時代と仏教」、「日本のヒューマノイド文化と仏教」)のなかでふれておきました。

*  *  *

この「からくり人体」観で一つ思い出すのは、「空」思想を受け入れた日本仏教がひきおこした、

「非情成仏」革命

 というとんでもない革命についてです。

「非情」といっても「無慈悲」のことではありません。インド仏教以来の、「有情」/「非情」の二分方に関するもので、「有情」はインド語のサットヴァの訳。仏教英語辞典で引くと「All beings that have feeling」などとでてきますが、「心のはたらきをもつもの」を意味します。

一方、「非情」は「心のはたらきをもたないもの」で、これは石ころなどが典型です。

インド人は、人間と動物を「有情」にふくめ、植物と石ころなどの無機物を「非情」に分類した。

この分類区分はインド仏教が中国に伝わると曖昧になりますが、曖昧さを取り払ってしまい、驚くべきことに、「区分の全面廃棄」に至ったのが日本仏教です。

 要するに、ここでは人間も石ころも平等に、

「空」の変動態

 として区別する必要がないものになった。

「空」(「真如」という言葉も使います)は「ゼロ」という意味ですが、有機物の代表格である人間も石ころも「ゼロ性」において一致するという右の考え――絵に描いたような「ゼロの汎神論」ですね。

ちなみに「成仏」というのは、ここでは仏教の真理、具体的には「空」の真理を体現している状態を意味します。

 ものというものは「空」であるという考えをひねりだしたのは、もちろんインド仏教の坊さんたちだった。ですが、それは実際には人間に焦点をおいたものでした。

 なぜなら、仏教の第一のモチーフは、「輪廻」からの脱出にありました。もし人間が「空」ならば、輪廻の主体となるものが消失する。自動的に輪廻自体もなくなる。このように問題の前提を奪い去ることにより、問題自体をなくしてしまったわけですね。

 が、幸か不幸か、中国人はこのインド人が言う「輪廻」なるものにリアリティを感じなかった。あそこの人々は人間がとにかく現世的に出来てますから。ピンとこなかったわけですね。

その結果として、「空」の観念的な理論だけが注目を浴びることになり、「成仏」つまり「空」の真理を宿すのに「有情」/「非情」の区別は別段必要ないんじゃないかという見方がぼちぼち出始めた。

 それを「ない」と言い切ってしまったのが日本仏教です。

*  *  *

これが「非情成仏」(石ころも成仏する)の革命でしたが、それを起こしたのは平安時代の理論家肌のお坊さんたちでした。万物にゼロが宿る「ゼロの汎神論」がIoTやロボティクスの原理とフィットすることは、すでにふれてきた通りです。

このお坊さんたちは「空」の理論の追求を通じて、それと意図せずに「日本3・0」のテクノロジーの指導原理を提示してしまったのでは、とそんな気もしてきます。

 佐々木さんの『日本3・0』によると、第四次産業革命でテクノロジー面の柱となるのはAI、ロボット、IoT、ビッグデータの四分野ですが、このうちAIとソフトウェアで日本は残念ながら大きく立ち遅れてしまった。

 いまから米国企業に勝つのは無理な状態だそうです。

 ただ、そのAIも「単体」で勝負することがむずかしくなり始めている。

 なぜならAIをオープンに公開する傾向が加速するなかでいずれAIの「コモディティ化」が予想されるからで、そうなると、

「ハードウェア×AI×ネットワーク」

という、「融合領域」こそがテクノロジー開発の戦場の最前線になってくる。

 つまりIoTやロボットの出番となるわけで、日本の第四次産業革命で最もポテンシャルが高いのがこの二つの分野だという。

 日本人は根からの「多神教気質」の国民で、キリスト教のように唯一絶対神を仰ぐ「垂直型信仰」は苦手にできています。

「ゼロ」の神々が万物に宿りながらフラットに偏在するIoTの社会に、べつにそれを「革命」とも感じずにすんなり溶け込めるかもしれません。

 つまり、気がついたら「革命」が成功していた可能性だってあり得る気がするのですが、佐々木さんはそうした日本を率いるリーダーにいま必要なのは、

「コスモジャポニズム

 の発想だといいます。

 ナショナリズムとコスモポリタニズムの融合をさす佐々木さんの造語だそうです。

ただ、仏教は本来コスモポリタンなものです。

 仏教は「空の底抜け」を飼い馴らす技術としてきわめて洗練された世界観をもちます。そう考えると、佐々木さんの主張は、日本仏教、あるいはその感性が近未来の社会で見えない安定装置として機能し得る可能性を示唆してくれるものかもしれませんね。

※次回の更新は4月17日です。

№36【分子輪廻と仏教】

 

 人間は死なない。いや、正確にいえば死んでも生まれ変わりつづける。

 一部の分子生物学者によると、これは科学的に動かしがたい事実だそうです。

 日本は火葬の国(日本の二〇一七年度の火葬率は九九・八%!)なので、それを例にとりましょう。

 人間が死んで火葬場で焼かれる。するとその身体の成分のほとんどすべて(九六%)はH2OやCO2など目に見えない無数の分子になって、煙突のなかから大気中に拡散してゆきます。

 このH2OとCO2が太陽の光をうけて光合成を起こし、炭水化物を作って、米や麦など植物の主成分となる。

 結局、人間はこの植物を食べて生命を保つのですが、いったん死んで見えなくなっても、分子レヴェルでは文字通り、「生命の連鎖」の営みを無限にくりかえしている、というわけです。

 生命科学に造詣の深い方のなかには、これを、

「分子輪廻」

 という面白い言葉で呼ぶ人もいるようで、これは『再生』という自然葬関係の雑誌の二〇一六年三月号で余語盛男さんが報告していました。

 

 輪廻(reincarnation)は古代エジプトギリシャをはじめ世界各地でみられた思想ですが、仏教をうけいれた日本では、なんといっても古代インドのそれが有名です。

 ただし、正確にいえば、古代インドの人々が考えた輪廻思想のなかで、「生命の連続性」は、あくまでそのもつ要素の一部にすぎません。

 この無限連鎖のプロセスに、「自己」および「因果応報思想」という二つのものが加わって、わたしたちがよく知る「輪廻思想」が完成されることになりました。

「因果応報思想」、つまり前の世の良き行いが後の世に良い世を、悪い行いが悪い行いをもたらすという考え方ですね。

 

 これは、おそらく世界で最も徹底的な個人責任論の形、「自己責任の無限連鎖」とでも呼ぶべき考え方ですが、その苛烈さを受けて、この輪廻という考え方からの脱出に挑戦したのが仏教です。

 その際、仏教の開祖ブッダ(紀元前五六三~四八三)は、輪廻という考えへのとらわれから自由になった境地を、

「涅槃」(ニルヴァーナ)

 と名づけ、その安息の境地を修行者のめざすべき最終ゴールにおきました。

 そして仏教は、その後の歴史のなかで、さらに展開をみせることになります。

ブッダの死から数百年過ぎた紀元前後に起きた、大乗仏教の誕生です。

これは、このブログのコラムで何度も論じた「空」思想を出発点においた革新派の学派(スクール)でしたが、その学派で最初に固有名詞が伝えられた理論家がナーガールジュナです。

 日本では龍樹という漢訳名で知られていますが、そのナーガールジュナが『因縁心論』という一問一答式の著作のなかで、こんなやりとりをかわしています。

 

 問う――一体、何がこの世からあの世に行くのか?

 答える――原子ほどのものも、この世からあの世へは移らない。「空なるもの」から「空なるもの」が生じるというだけである

 

 つまり、人間はもともと「空」(ゼロ)なのだから、死んだところで何も変わらない。「ゼロ」が「ゼロ」に移るだけだよ、とこの切れ者理論家は言うわけですね。

ナーガールジュナはこうして「もの」の時間的変化を「もの」の「ゼロ性」を理由に否定しましたが、同様の理由から「もの」の空間的な変化も否定しました。

ここに、「ゼロの汎神論」世界が生まれることになるわけですが、ブッダが輪廻という考え方からの自由をその教えの中身にしたことはさきにのべた通りです。

が、ブッダの生前時、「空」という概念は未発達のままで、さすがにここまで徹底的な主張はなされなかった。

 大乗仏教が革新派と呼ばれるゆえんですが、ナーガールジュナの主張が輪廻思想の先鋭な否定、「ゼロベースからの解体宣言」を意味したことはいうまでもありません。

 おかげで、ナーガールジュナは、同時代の輪廻を信じるインド人からすっかり「過激主義者」あつかいされてしまいました。

 このナーガールジュナの「空」思想をコンパクトにまとめた経典が、日本の葬式で最も普通に読まれる『般若心経』です。

『般若心経』は「自己」は「空」(ゼロ)であり、生も死もないということ(だけ)を説いています。

 そう説くことで、肉親の死の悲しみを癒し、自分にいつか訪れる死への不安の解消を願ったわけですね。

 わたしたちには「仏教には輪廻思想がつきものだ」というイメージがあります。

 が、わたしたちの先祖が葬式で読まれるのを最も望んだ経典の一つが輪廻の徹底解体を説くものだったことは覚えておいてよいかもしれませんね。

※次の更新は4月13日です。

            

№35【オランウータンの人権と仏教】

 

「空」というのは世界の底を抜く概念です。

 世界は「もの」が多元的に組み合わさって構築した産物です。

「空」はその「もの」と「もの」との区分を一挙に「ゼロ化」してしまう。

 最新作の長編『騎士団長殺し』(二〇一七年二月)が話題の村上春樹さんのデビュー以来の長編の底にも、

「空」の世界観

 が流れているのは、その一見非仏教的なイメージを考えると面白いところです。

「空」が区分を廃棄する「もの」に制限はありません。

「空」の底抜けとの格闘――最後は負けるとわかっているがゆえの身ぶり(ジェスチャー)もふくめての――が、デビュー作『風の歌を聴け』以来、いわゆる「村上らしさ」の一部となってきたわけですが、

「空」が区分を廃棄する「もの」に制限はありません。

 そして、「空」がもつその圧倒的な無制限性に対する無力感、そこに生まれるのが、

「否定を通してのナルシシズム

 ともいうべき甘美なセンチメントです。

 実際、村上さんの諸長編には主人公が鏡の自分をのぞきこむ場面がよく登場します。

 今回の『騎士団長殺し』でも、本文が始まって50ページも進まないうちに、主人公の画家(「私」)はそれぞれ違った場所で三度も鏡に映る自分の顔を見つめていて、読みながらなんだか嬉しくなりました。

 むろん、「空」思想が変化をもたらすものはナルシシズムだけではありません。

「空」思想が(無意識にせよ)人々の思考の枠組みを浸すとき、それがもたらすのは、

「ゼロの汎神論」

 とわたしが以前から呼んできた、「もの」同士の区分をめぐる確信が「ゼロ化」のなかで無限にあやふやになってゆく世界です。

以前のコラムでもふれた「空」の底抜けの世界ですが、そこではたとえば、人間とサルの区分も蒸発してしまう。

 これは冗談でもなんでもありません

、実際に、「ゼロ化」の潮流が、その遠くない将来に人間にもたらす運命を示唆する事件が、少し前の南米でありました。

 二〇一四年の十二月にアルゼンチンで起きた、

「人間」/「オランウータン」

 の区分の革命的な廃棄事件です。

 アルゼンチン国内のある裁判所で――事案は不明なのですが――オランウータンへの扱いがからんだ訴訟で、オランウータンに、

基本的人権の一部」

 を認めたのですねェ。

 しかし、「ゼロの汎神論」の世界観からすれば、合理的といわないまでも、べつにあっておかしくない判決だということになる。

 そういえば、村上さんの代表作『海辺のカフカ』は人間と猫との区分が廃棄された世界を描いていました。

 アルゼンチンの裁判所の「オランウータン」判決は突飛なものとして世界的なニュースになりました。

 しかし、あと半世紀もすれば、この判決に人々が驚く時代があったことに人々が驚く時代がくるのではないか。

「ゼロ」のもつ最大の効果はあらゆる種類のヒエラルキーのフラット化です。

 村上文学はここでも「預言のオルゴール」をかなでているというわけですね。

※次の更新は4月10日です。