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№32【時間SFと仏教】

 

 映画『ブルーハーツが聴こえる』が四月から全国ロードショー公開されます。

 斉藤工さんがタイムスリップして高校時代に戻るのが話題のオムニバス映画です。 

 それにしても、映画であれTVドラマであれ、時間SFというのはなぜあんなに面白いのでしょうか?

 何も純粋なSF作品にかぎりません。いわゆるタイムスリップあるいはタイムトラベルをあつかった作品。

 日本の作品なら古くは『戦国自衛隊』、『時をかける少女』、TVドラマの『JIN―仁―』。

 洋画ではごぞんじ『ターミネーター』と『バック・トゥー・ザ・フューチャー』。

 いずれも時間SFそのものかその「タイムトラベル」理論を作品の柱にしたものです。

 どれをみても面白く、右にあげた作品はすべて続編が作られたりリメイクされたりしました(考えてみれば、堤真二さんが出演した『本能寺ホテル』も二〇一一年の『プリンセストヨトミ』の広い意味での続編のようなものでした)。

 時間SFについてはいままで何冊かの本がでていますが、わたしが最近読んだうち最も面白かったのは、社会理論学者でSF作品にくわしい浅見克彦さんのお書きになった『時間SFの文法』です。

 時間SFの嚆矢となったH・G・ウェルズの『タイム・マシン』(一八九五)を皮切りに、古今東西の時間物のSFの「精神」を様々な角度から分析した緻密でスリリングな内容からなっています。

 浅見さんによると、時間SFの世界において、

「物語は現実にはありえないハチャメチャな時間世界を描き出す」。

 にもかかわらず、それを読む(見る)者は、そうした時間をめぐる「リアリティ」の解体になぜか「魂の救済」を感じてしまう。

「時間SFが顕在化させるニヒリスティックな意識」は「時間SFが浮き彫りにする時代意識のなかで、もっとも基本的なものだと言ってよいだろう」

「読み手はあり得ない時間構成をとる物語の世界にも、現実世界と同じような時間の経過があると思いなしているのだ」

 浅見さんは「そもそもリアリティというのは……物語を物語たらしめる条件、あるいはその本物らしさの問題と結び付いている」と指摘します。

 そして時間SFの時間SFらしさは、本物らしさに関する「価値意識を攪乱するという点にある」。

*  *  *

浅見さんが言う、時間SFを歓迎する現代社会の「本物という価値を疑うシニカルなムード」という言葉――この本がでたのは二〇一五年の十二月でしたが、これはその約一年後トランプさんが当選して「フェイク・ニュース」が流行語になった今にこそあてはまるものだったといえるかもしれません。

 そんなわけで、浅見さんの本は時間SFの根強い人気についてのわたしの長年の疑問に見事に答えてくれるものになりました。

ところで、仏教をかじった人間ならば時間のリアリティの解体と聞いて思い出す人物がいます。ナーガールジュナです。

 これまでのコラムのなかでもすでにふれた通り、「空」の理論を確立した大乗仏教の論客でしたが、その主著『中論』のなかで時間をめぐる精密な議論を展開したことで知られています。

ナーカールジュナは、「空」の世界における時間の不可能についてつぎのように説いています。

「過去・現在・未来は相互依存関係として成立する」(『空七十論』)

 それゆえに、

「時間は実体として成立せず、過去・現在・未来の区分はあり得ず、思惟としてのみ存在する」(〃)と。

 いうまでもなく、時間それ自体に「実体」はありません。 

 ここにいう「思惟」とは「人間の思考」、つまり「意識」のことです。

 ナーガールジュナは、時間もまた他のあらゆるものと同様、人間の意識の産物という点で幻影のようなものにすぎない、と説いたわけですね。

 時間のイリュージョン化の意識は、電子的ネットワークの全地球レヴェルでの完成がもたらす、

「リアルタイムの専制」、

 その直接の産物としての、

「いま、ここ」

 の感覚の先鋭化と見事に握手するものです。

 もっとも、「空」思想によれば、この「いま」「ここ」の二つもまた――「底抜け」化の文法にのっとって――結局は「ゼロ」化の圧力のもと、解体の憂き目にあうわけですが。

 ちなみに、さきに映画やTVドラマを例にしましたが、文学のジャンルでいえば「時間の解体」のテーマを最も執拗に追求したのが村上春樹さんの長編小説の世界。

村上さんの異世界物の長編小説で「時間の解体」感覚にふれなかった作品は探すのがむずかしいほどです。

 村上春樹さんは、非SF作家でありながら「時間SFの文法」を最もよく体現した日本人作家だといえるかもしれません。

 この先、時間の「リアリティ」の空無化はIoT社会の進化とともに深化する一方でしょう。

そう考えると、「時間SF」の作者たちは現在進行中の時間意識の変貌の最も古くからの予言者として記憶されることになるかもしれませんね。

※次の更新は3月30日です。                

No.31【「プロジェクト・ゼロ」と仏教】

 

 仏教哲学の「空」という概念は、

シューニヤ」

 という「ゼロ」を意味するインド語を中国人が漢字に直したものであること、また「空」は伝統的に、

「空っぽ」(emptiness)

 あるいは、

「真空」(void)

 という言葉でも表現されてきたことは、このブログでも何度かふれてきたところです。

 それに関連して、三月中旬にでた米国の「ワシントン・ポスト」紙に面白い記事がのっていることを知りました。

〈多くのインド人にとって、ゼロは多くのものを意味する〉

 というタイトルで、ラマ・ラクシュミという人が書いた記事です。

 インド人は「ゼロ」を発明した国民であることを誇りにしています。

 事実、記録に残るかぎり五世紀にはインドの数学者たちは十進法ベースで「ゼロ」を使っていたことが研究者により確認されています。

ワシントン・ポスト』紙の同記事によると、インドにはインドの「ゼロ」の起源を探るために組織された『プロジェクト・ゼロ』という学者による国際的な研究チームが存在する。

 その一人のオランダ人の学者は、インドの数学者が「ゼロ」を使い始める以前からヒンドゥー教仏教哲学で「空っぽ」や「真空」の概念が用いられてきたことをふまえて、つぎのようにのべています。

「われわれは、『ゼロ性』や『空性』(空であること)といった文化的概念をずいぶん昔のインドの哲学、芸術、建築において見出している。われわれはそれらをさかのぼることにより、そうした哲学と数学を歴史的につなぐもの(bridges)を探したい」

記事によると、『プロジェクト・ゼロ』のメンバーは四月にニューデリーで、「キャンプ・ゼロ」と銘打った三日間のブレイン・ストーミングを開催し、そこでは数学者や哲学者のほか、宇宙物理学者、考古学者、貨幣学者など幅広い分野の参加者が歴史的な文献、石板、印象などを調査するという。

 興味深いのは、記事がインド仏教の三世紀の哲学的テキストには「空性」についての詳細な詩が発見できるとしていることで、これは当ブログでも折にふれてとりあげた、「空」思想の理論モデルの確立者、ナーガールジュナ(一五〇~二五〇)の『中論』などの著作をさすものだと思われます。

 また、「インド数学のアルゴリズムが文献上紀元前一世紀にはすでに存在していた」との説も記事では紹介されています。

「ゼロ」というのは古くて新しい概念です。

 電子テクノロジーの発達がわたしの言う「ゼロの汎神論」を地球規模の情報空間に出現させつつあることは、当ブログでくりかえしのべてきました。

「ゼロ」はある意味で人類が見出しつつある「未来の神」だといってもよいかもしれません。

 経済的グローバル化の信奉者は、よくそれについて、

「後戻りできない」

 という言葉を用いますが、この形容詞が最もよくあてはまるのは、むしろ現在進行しつつある、

「ゼロの汎神論の支配」

 についてではないでしょうか。

「ゼロ化」のプレッシャーは、いずれ今日最も頑固な狂信、イスラム原理主義者の「底」を抜くでしょう。

 いや、本当は、その宗教的な自己欺瞞の深化という形で、かれらの気がつかない間にすでに抜きつつあるのかもしれません。

インドが国際社会で政治的・経済的な覇権を握ることは考えにくいところですが、その「哲学」の世界制覇の方はどうか? それはもう起きつつある気がしてなりません。

 インドの『プロジェクト・ゼロ』が最もカネと時間を費やすべきは「ゼロ」の歴史の追求ではなくて未来の世界に向けての「汎神論的ヴィジョン」の方かもしれませんね。

 ※次の更新は3月27日です。

No.30【ポピュリズムと仏教】

 

 日本の中世にもグローバル化があったということをごぞんじですか?

 これは歴史家の與那覇潤さんの『中国化する日本』(二〇一一)がとりあげたことで、〈歴史ファン〉以外にも知られるようになりましたが、中世といっても、

〈平安末期~鎌倉初期〉

 西暦でいえば、

〈十二世紀末から十三世紀初期〉

 にかけてのこと。

 政治的には平家政権から源氏政権への転換期をふくみますが、〈国際派〉の平家政権は貿易商人・海賊と結んで、対外的な開放政策をとっていました。

 この場合の「外」とは中国――世界的帝国の「宋」(の国際貿易圏)――を意味しますが、その結果、当時の国際通貨である〈宋銭〉が日本の国内市場に洪水となって流入し、〈日本の標準通貨〉になります。

 これは今日の時代に直せば、国際基軸通貨の米ドルが日本の標準通貨になることを意味しますが、一方で、こういう〈非日本化現象〉が国内的な反発をうむのもまた自然な話。

 保守的な公家貴族の一部からはいわゆる金銭万能主義への批判、

「近日天下上下の病悩はこれを銭の病と号す」(『百錬抄』)

 という貿易の〈オープン化〉の副作用(「国のかたち」の溶解)をめぐる怒りが噴出することになります。

 ここに、

グローバル化〉vs〈ナショナリズム

 という現在の世界情勢を特色づける対立軸の中世版を見出すのはそうむずかしくないでしょう。

 ただ、興味深いのは――これは與那覇さんの本にはでてきませんが――この時代には、それに並行して、

エスタブリッシュメント〉vs〈ポピュリスト〉

 というもう一つの(今はトランプさんで話題の)対立軸が先鋭化していたことで、以前のコラム『ミニマリスト仏教』(1)(2)でとりあげた鎌倉仏教の「革新的」宗祖たちの多くは、

〈大衆に迎合するポピュリスト〉(「俗情と結ぶ不逞の輩」)、

 あるいは、いまの言葉でいう、

反知性主義の煽動者〉

 の烙印をエスタブリッシュメントから押されることになった。

 エスタブリッシュメントとは一般に政財界をふくむ既成のエリート層をさして使われる用語ですが、ここでは、当時の京都の政界と癒着的に一体化した〈知性の殿堂〉である比叡山を中心とした勢力の意味です。

ミニマリスト仏教』でふれたように、法然日蓮は流罪の憂き目にあいました。それは直接にはこの「煽動」の罪によってでした。

 また、一遍は、流罪にこそなりませんでしたが、〈危険人物〉とみなされて鎌倉幕府から鎌倉への立ち入りを拒否されました。

 鎌倉仏教の特色は、既成の学問仏教が権威によりどころとした、

〈古典的な教養知〉

 を時代にそぐわないので無意味とし、学問とは無縁な民衆に対し、だれにでもできる、

〈最小限の「行」〉

 をおこないさえすれば救済されると請け合った点にありました。それが平安朝以来の教養の権威を守ろうとする伝統仏教側からの〈反知性主義〉の助長者のレッテル貼りにつながったわけですね。

 もっとも、法然日蓮、それに一遍は等しく知性にめぐまれた人物ぞろいで、比叡山が〈反知性主義〉とみなしたものは、実際には〈知性の相対化運動〉にすぎなかったのですが。

 十二世紀末から十三世紀にかけての第一次グローバル化は、従来型の〈古典的教養〉の「知」が有効性を失う、

〈知の地殻変動

 に揺れた時代でした。

 これはぶ厚い読書体験に基礎づけられる、

〈近代的教養の知〉

 が衰退し、スマホ的な情報メディアによる、

〈web社会の知〉

 にとってかわられようとしている今の時代に通じる変動だったといえるかもしれません。

 日本のメディアでは〈ポピュリズム〉というと、第二次世界大戦前の、

反自由貿易運動の高揚→世界大戦の勃発〉

という〈歴史の教訓〉をもちだすのがお好きなようです。

 気持ちはわからなくありませんが、歴史の比較の対象を現代史に限るのはもったいない話ではないか。

 歴史を近世以前にさかのぼらせ、

〈米ドル〉―〈宋銭〉

 あるいは、

〈教養知〉―〈仏教

といったより個別的なテーマごとに比較を試みるとき、海外のメディアの焼き直しとはちがった形でさらに面白い議論の広がりを期待できるのではないでしょうか。

TVをつけたらたまたまメディアを「フェイク・ニュース」と罵るトランプさんの顔がでてきたせいでしょうか、〈ミニマリスト〉のコラムを書きながら、そんなことを考えました。

※次の更新は23日です。

No.29 【クロモフォビアからみる『騎士団長殺し』】

 

 村上春樹さんは「白」という概念に強い関心を抱く作家のようです。

 しかもそのあつかい方には共通した特色がみられます。

 たとえば、一九八五年に発表された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。

 そこでは、気がつくと「街」と呼ばれる「完全な無」を実現した異世界に迷いこんだ主人公の姿が描かれます。

「街」で主人公があてがわれた「官舎」は「二階建ての白い官舎」で、「見わたす限り何もかもが白」の家並が白い砂利道沿いにどこまでもつづく世界の一画に暮らすことになります。

 また「インターネット世界」をめぐる現代の寓話として読まれることの多い二〇〇四年の『アフターダーク』では、「純粋な抽象概念」で出来たという「あちら側」の異世界が「空白のほかには何も見えない」空間、「色のない空間」とともに登場します。

 そしてこの作品で、「デジタル社会」の無機性をになう人物として現れる暴行犯の会社員の名は「白川」です。

 村上さんが作中人物の名に「凝る」ことはよく知られていますが、名をめぐって思い出される作品といえば、長編としてはひさしぶりに「リアリズム小説」に針を振った二〇一三年の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』があります。

 そこで主人公のつくるを生き地獄に叩き落す「悪霊のとりついた」元同級生の名は白根柚木、仲間からは「シロ」と呼ばれる女性でした。

 また、つくるは自分の名前に色彩を示す文字が欠けているゆえに自身を「空っぽの人間」と感じる過剰な自意識に悩む人間として描かれていました。

 このように春樹の長編作品における「白」は「空白」をめぐる不安を喚起するものとして働きますが、同様の「白」の機能は最新長編の『騎士団長殺し』でも発揮されます。

 この作品には重要な脇役として「免色」という風変わりな姓をもつ元インターネット関連のビジネスマン(webビジネスマン)が登場します。

 かれは主人公の近所に「白い高い壁」に囲まれた「白いコンクリート」の邸宅に住む謎の五十男です。

 免色は「純白の」豊かな白髪の持ち主で、初対面のときは「真っ白なコットンのシャツ(主人公の表現によれば「ただ白いだけではない。真っ白なのだ」)を着て現われますが、かれと別れた後主人公はなぜか「ほんとうに空っぽ」になっている自分を発見し ます。

 免色は「数値」(アルゴリズム)のみが「価値」をもつ情報ビジネスの世界の出身者として、web業界の空虚を体現する存在として描かれますが、この免色という「色を免れる」、つまり色彩から見放された名をもつかれもまた、自身を「空っぽの人間」「ただの無」と感じることがあると告白し、多崎つくるを連想させることになります。

 その他、『騎士団長殺し』では、病死した主人公の十二歳の妹が「不自然なくらい白い」レースの襟のワンピースを着て、「色を抜かれたような」蛍光燈の光の下、「不吉な白い花」に囲まれた柩に横たわるのを主人公が目撃したこと、そしてパニックに襲われたことが物語られます。

 この場面で村上さんは、妹の遺体に「黒いベルベットのワンピース」を着せ、「黒いエナメルの靴」を履かせるのですが、結局ここで「白」を通して強調されたのはモノトーンの世界だったことがわかります。

 *   *    *

 これまで村上さんは十四の長編を発表しましたが、そのなかで「モノトーン」が小説自体のアンダートーンとなった作品として思いつくのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『アフターダーク』の二篇です。

 前者は「何もかもがあり、同時に何もかもがない」という「不死」(amata)の世界を描いて、デビュー作『風の歌を聴け』以来の流れをしめくくることになった記念碑的作品。後者は『海辺のカフカ』の後に書かれた、実体世界の最終的解体原理としての真空(void)の視点からみた「現実」と「異世界」との照応関係に焦点をあてた異色作でした。

 いうまでもなく「モノトーン」は両作品の異世界が醸すもので、「白」(ないし「空白」)は建物やそれをとりまく空間について用いられていました。

 本作品で「純粋なイデア」を名乗る「騎士団長」は、自分は「真空」を呼吸している存在だと語りますが、村上さんの長編で「真空」が「実体的な無」と実体解体原理(「空」)の二つの異なった意味で使われてきたことは、拙著『村上春樹仏教Ⅱ』で記したところです(同書第九章、第十一章)。

 村上さんは小説という世界の設計者ですが、実体世界の空間(建築)の分野で、「白」は、「モノトーン」「観念性」「抽象性」「ミニマリズム」等の概念とともに語られてきた歴史をもちます。

 それについては、英国のアーティストのデイヴィッド・バチェラーという人が、『クロモフォビア』(田中祐介訳/青土社)という本を書いています。

「クロモフォビア」とは色彩恐怖症をさす言葉ですが、『世界の終りと――』、『アフターダーク』、『騎士団長殺し』にみる「白」のあつかいは、作者の「白」に特化したクロモフォビアを感じさせるところがあります。

 村上さんの長編の「異世界物」では、現実/幻影をふくむあらゆる二項対立が廃棄された世界が好んで描かれ、その志向は今回の『騎士団長殺し』でも引き継がれます(「存在と非存在が混じり合っていく」/「これはあるいは現実ではないかもしれない。しかし夢でもないのだ」等の文章を参照)。

 バチェラーの前出の『クロモフォビア』は色彩論がテーマの書物ですが、その冒頭で、一九九〇年代の初め、招待された英国系アメリカ人の「大いなる白い内部」の邸宅のミニマリズム、「これみよがしの空虚」の支配する空間について語る文章がでてきます。

「この家の内部にあったのは……清潔、明澄で、きちんと整序された宇宙である。しかし、同時にそれは逆説に満ちた裏返しの世界であり、その世界では、開かれたものが閉ざされ、単純が複雑であり、簡明が混乱であった。それは、ほかの世界の存在の存在をすすんでは認めようとしない世界である」

 バチェラーによれば、それは「鼻につく空白」であり、

「考え抜かれた空虚であったけれども、とげとげしさも含んでいた」

「この大いなる白い内部が、たとえ物が充満していても空虚であるのは、そこにあるものがそこに内属せずに、たちまちそこからはじきだされてしまうからである」

 ミニマリズムと二項対立の解体は相性がよいようで、「白のミニマリズム」は文字通り、すべてがあるが同時にすべてがない世界を展開することになります。

騎士団長殺し』については「『騎士団長殺し』を読んで」という二月二十五日公開の文章で、「既発表の長編の『見せ場』を回顧的に再現し、配列した」おもむきがあると書きました。

 それ以上付け加えることはありませんが、一つだけ指摘するなら、この「配列」については、「白」が喚起する「空白」のイメージの二義性をめぐっても言えるということです。

かつて勝原晴希さんが]村上作品における「ない」の多義性を指摘していました(「不在・欠落/次の闇が訪れるまでに」『村上春樹』至文堂所収)が、一言で言えば、ここでの「空白」には「初めからの不在」と「喪失」の二つの比喩が託されます。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『アフターダーク』は異世界の原理としての「初めからの不在」が前面にでた作品でしたが、『騎士団長殺し』はそれに『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』的な「喪失」をない混ぜた感があります。

 免色の「白いコンクリート」の建物やリビングにわざわざ「生け花」を咲かせ、「そこにはある種の温かみがある」と主人公に語らせた箇所があり、これは村上さんの本作品における「折衷的な」態度をよくしめしています。

村上さんの愛読者たちにとって、これまでの「異世界物」の二項対立廃棄の世界が踏襲されているぶん、いわゆる「村上らしさ」は充分に担保されているわけですが、この「空白」めぐる「中和」が、先を丸めた鉛筆でこれまでの長編世界のおさらいをしたという印象につながったのかもしれませんね。

次回の長編が待ち遠しいところです。(2017.3.15.14:00pm)

※今回の文章は、私の研究用webサイト「村上春樹仏教」の「連載/村上春樹篇」にも公開中です。

※当ブログの次の更新は3月20日です。

No.28【ポリティカル・コレクトネスと仏教】

 

 今回はPCの話です。

 といっても、パソコンではなく、ポリティカル・コレクトネ(political correctness)の方。

 特定のグループ、とくにマイノリティの人々の感情を傷つけないように言葉やふるまいに配慮することで、たとえば、パプリックな場面で、

「メリー・クリスマス」

 という挨拶言葉を、

ハッピー・ホリデー

 と言い換えることになったのも、PCのコードにひっかからないためだとか。

 なんだか、めんどくさいですねェ!

 まあ、このブログは日本人相手に日本語で書いてるお地元密着のローカルブログですから、どっちでもいいですが。

 そのPCが世界一めんどくさい米国でツイッター大好きのトランプさんが大統領になって二か月近くたちました。

 トランプさんという人はアンチ・リベラルの人ですから、PCが大嫌いらしい。

おかげでメリル・ストリープさんをはじめとするトランプ嫌いの人々からは、米国社会に、

「分断と不和」

をもたらした元凶として非難される身になったことはごぞんじの通りです。

米国社会の「多様性と寛容」の国民神話に泥を塗ったというわけなのですが、こうしたトランプ批判をみて思い出される言葉があります。

それは一九六〇年代の初め――昔話で恐縮ですが――にマーシャル・マクルーハン(カナダの文明批評家)が広めて世界的に有名になった「グローバル・ヴィレッジ」という言葉です。

マクルーハン博士は当時「メディアの予言者」と呼ばれた先駆的な人物でした。

「グローバル・ヴィレッジ」はその著書『グーテンベルクの銀河系』のなかで語られたものでした。一言でいうと、

「電子的ネットワークの発達により、情報が地球上いつどこでも手に入る結果、地球全体が一つの村(ヴィレッジ)になること」

をさしています。

 生まれたときからインターネットがあった世代(デジタル・ネイティブ世代)の人々には「なんだそんなことか」と思われるかもしれませんが、マクルーハン博士がこれを言い出したのは一九六二年。

 いまから五十五年も前のことでしたから、当時としては大変斬新な主張。「グローバル・ヴィレッジ」はたちまちメディアを通じて流行語になりました。

 さて、そのマクルーハン博士が「グローバル・ヴィレッジ」を発表した後、『Hot&Cool』のインタヴューに答えてこんなことを語っています。

 

「グローバル・ヴィレッジという条件が生みだされると、それだけ裂け目や不和や多様性も生みだされる。まちがいなくグローバル・ヴィレッジは、あらゆる地点で最高度の争いを確実なものにする。……村は理想的な平和と調和の場所ではなく、まったくその反対なのだ」(浅見克彦訳)

 

 マクルーハン博士の時代に情報を地球上いつでもどこでも、「リアルタイム」に入手し共有できるツイッターは影も形もありませんでした。

 マクルーハンの洞察は発表当時より今日の世界にこそあてはまるものだというわけですが、「分断と不和」をもたらす元凶は、「グローバル・ヴィレッジ」の構造自体にあることがわかるでしょう。

 トランプさんはそれを露悪的かつコミカルに(つまりプロレス的に)体現しているだけ。だれがリーダーになろうが、「分断と不和」は進むだけだと思われます。

  •    *    *

 ところで、このようなトランプさん的な毒舌キャラで、大衆の喝采を浴びる人物を日本で探すとなるとだれでしょうか?

 いまの政界にはさすがにあのスケール感に匹敵する反逆児キャラはいなさそうですが、昔の日本人でよいというならば、一人思いつく有名人がいます。

一休宗純(一三九四~一四八一)

 がその人です。

 応仁の乱という「不和と分断」の時代に、その天下無双の人を食った毒舌と破天荒なふるまいで人気者になった禅の坊さんで、一休和尚の名で死後も長く親しまれることになりました。

 かれの言行はのちに「一休法語」という形でまとめられましたが、真偽不明の伝説の多いのが特色です。

 人がめでたがる正月にわざわざドクロを付けた杖を片手に歩き回り、

「門松は冥途(めいど)の旅の一里塚」

 の教えを説いたという有名な話がありますが、研究者によるとこれは作り話のようです。

 同じように有名な逸話で、本当にあったのは盲目の美女を愛人にしたという話の方。

 森女という名の旅の女芸人でしたが、知り合ったとき一休は七十歳、森女は三十代前半。

 一休は彼女とセックス三昧の生活にふけり、「吸美人婬水」(美人の婬水を吸う)などと題したポルノまがいの漢詩(艶詩)を数多く詠みました。

 いずれにせよ、一休の言動に「ポリティカル・コレクトネス」などクスリにしたくもありません。

 そのことが逆に、世間に流行る偽善をあざ笑う、

「スカッとジャパン」

 の坊さんヴァージョンとして、長く愛されることになったわけです。

 応仁の乱は戦国乱世の「底抜け」の序曲となり、その意味で一休は時代の予言者になりました。

 米国社会はよくも悪くも世界の縮図といわれます。 

SNSなどによる「底抜け」が世界的に構造化したいま、ツイッター好きのトランプさんの登場がどんな近未来の到来を予言しているのか、考えてみるのも面白いかもしれませんね。

(次の更新は3月16日です)

No.27【『騎士団長殺し』を読んで】

 

 主人公が失踪者の捜索をめぐって異世界にコミットするという村上さんの長編の「王道パターン」を踏んだ作品ですが、その異世界が「有」-「無」の境界を超えた、「関連性」を構造原理とする「メタファー」の世界であるという所が村上さんならではだ、と思いました。

 ただ、『風の歌を聴け』以来の十三の長編を貫いていた「実在論的世界観」vs「唯名論的世界観」を軸とする「往きつ戻りつ」の格闘が影をひそめたこと、その代わりに既発表の長編の「見せ場」を回顧的に再現し、配列したような「フラット感」が印象に残りました。

 全二巻仕立ての長さのわりに小じんまりとした感じとなったのはそのせいかもしれませんね。

*    *    *

【以下、読後感を箇条書きで】

■『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で「沙羅の樹」の足元に戻ることにより「一巡」してしまった村上さんが次にどう打って出るか。読者は、新たな展開や「裏切り」の予測を楽しみつつ、わくわくしながら待っていたわけですが、村上さんはお馴染みの回転木馬をあっさり追加的にもう一巡りして終えてしまったという印象です。

■『ねじまき鳥クロニクル』の古井戸、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の地底探検、『海辺のカフカ』の祠の石、生き霊、「イデア」の独り歩き、『アフターダーク』の「顔のない男」、『国境の南、太陽の西』の怪談、『多崎つくる』の性夢、色彩(「白」)への偏執といったアイテムが、わりと緊張感なく並べられ、埋め込まれています。それが結果的に「回顧的」な雰囲気を醸すことになったのかもしれません。

■今回、作品の内容以上に「長さ」の問題を読者に感じさせることになった理由は、まりえの父親の描き込みの不十分さに由来するものと思われます。「新興宗教」(この言葉自体もう時代遅れです)の活動に関わり、インドへの旅行経験があり、「輪廻」の研究に没頭しているという話が伝聞の形で記されていますが、因縁の土地との関わりの深さからみて本来ならば「牛河」並みにページを割かれてしかるべき人物だったでしょう。

■あるいは同じく宗教団体を扱った『1Q84』の二番煎じを回避したいとのことだったのでしょうか? この父親を加えて全三巻のボリュームを与えていれば、不足感は充分に免れたかと思われます。

■また、そうすれば、彼の位置からみて『ねじまき鳥クロニクル』的な歴史的暴力の相続vs浄化のテーマを、雨田画伯の「ナチ体験」や「南京虐殺」と有機的にリンクさせることもできたと思います。

■騎士団長が「飛鳥時代」の男という設定も、『春雨物語』との関係で微妙な齟齬感がありました。飛鳥時代仏教は受容されてはいましたが、日本仏教に「即身成仏」が登場するのは平安時代空海以降です。西洋風のタイトルをもつ日本画という設定は一向にかまいませんが、せめて院政期以降の中世、あるいは江戸時代にまで下げた日本画中の男、という設定にすべきではなかったでしょうか?

■村上さんが出発点にした「唯名論」の世界観は、その原理上、「垂直的コミットメント」にたえず水をさし、フラット化する作用をもちます。

■今後、新しい展望を得るには『1Q84』のキリスト教的な「神」の存在を導入するしかないのではないか。そうでなければ、追加的な二巡、三巡の「旋回」が待ち受けているだけではないか。あらためてそんな感想を抱きました。

 

以上、気づいた点をざっと並べてみました。さらに突っ込むと色々と面白い論点がでてくるかもしれませんね(2017.2.25.9:25am)

※本コラムは、私が主宰するWEBサイト「村上春樹仏教」の「連載/村上春樹篇」にも公開しました。

※当ブログは、週二度のペースでコラムを掲載しますが、次回「ポリティカル・コレクトネスと仏教」のコラムは、都合により3月13日の掲載になります。ご了承下さい。

No.26【清水富美加さんと仏教】

 

 なんだか笑えるタイトルですねェ。

 と書きながら、わたしも笑っていますが。

 今回のコラムでとりあげるのは清水さんご自身の話というより、彼女が使った、

〈出家〉という言葉についてのトピックです。

〈出家〉とは、「世俗との関わりを断ち、僧侶になって修行生活を送る」ことを宣言する行いのことです。

 清水さんは「わたし清水富美加は、出家します」と宣言しながら、「女優のお仕事も続けてゆくつもりです」と語っています。

 そこで、「そんなのは出家でもなんでもない」とその「バカさ加減」(原文のまま)をあざ笑うネットの論客たちもでてきました。

 ですが、この話を徹底的に議論し、追求していった場合、一番微妙な立場に立たされる人々がいるのをごぞんじでしょうか?

 日本のお坊さんたちです。

 というのは、日本はそもそも本来の意味でのお坊さんが存在しない仏教国だからです。

「ええっ!?」と思われるかもしれませんが、ホントの話です。

 というか、これは日本の仏教研究者の常識に属する話で、

〈日本仏教の在家主義的性格〉

 として昔から論じられてきたものでした。

〈在家〉とは、〈出家〉に対する言葉で、ここにいう「家」とは「世俗の家」のことです。そこには家族がおり、妻や子供がいます。

 実際、日本のお坊さんたちの場合はどうでしょうか?

 ほとんどの方が立派に奥さんをもち、子供を育てていませんか? つまり、どうみても〈在家〉の生活をいとなんでいるわけで、また世間の人々もそれをみて全然不思議に思ってない。そんなものだと思っている。 

 じつは、これはスゴイこと、仏教史上の「革命」に属することなのです。

 それは仏教の創始者のブッダ(お釈迦様)は、〈不犯〉(セックスをしないこと)

 を〈出家〉の条件にしたからです。

 事実、タイやミャンマーチベットなど他の仏教国のお坊さんたちは一生を独身で過ごします。

 日本ではこの掟(「戒律」と呼びます)がなぜか守られず、平安時代の末頃には、お坊さんが妻や妾をもち、父親になってもだれもあやしまなくなりました。 

 そんなわけで、一部の仏教学者からは、日本は「エセ仏教国」だとの手きびしい発言が飛びだしたりするわけですが、これはどうでしょうか?

 日本仏教が〈大乗仏教〉という紀元前後に成立した(※ブッダが生まれたのは紀元前六世紀です)「革新派」の仏教に属することは、以前、わたしのコラムでとりあげました。

 この「大乗」というのは「万人を救うための大きな乗り物」を意味する言葉です。

 一方、それ以前の仏教は、ブッダ自身もふくめて、〈出家至上主義〉の立場から、この世で救われるのは出家者たちだけだと説きました。 

 そうした考え方に異議を申し立てて、

「出家、在家を問わず、すべての人々は平等に救われる資格をもつ」

 と主張したのが大乗仏教

 お坊さんが結婚する日本の仏教は、この大乗仏教がたずさえていた〈大衆的性格の側面〉を極北にまで押し進めた、文字通り独自の次元を切り開いた仏教だとも言えるのです。 

 要するに、これは違いの問題であって、良し悪しの問題ではないというわけですが、「違う」といえば、清水富美加さんの〈出家〉先の『幸福の科学』グループの総裁・大川隆法さんは〈清水富美加の守護霊〉を呼び出して意義深いインタビューをなさったとか。

 べつにいいですけど、一言だけすると、ブッダはいわゆる「霊魂」の存在については、「あるかないかわからないものは論じても無意味」という立場から、修行者は議論自体にかかわるべきでないとしました。

 要するに、これも「違う」ということですね。

 日本はスゴイ国です。