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No.8【ソロ充と仏教】

時事ネタと仏教

  仏教というのはもともと〈ソロ充〉の教えでした。

  もともとというのは、仏教の創始者ブッダにとっては、の意味です。 

 仏教は今から二千五百年も前にインドでブッダが修行の末に作りあげた教えです。

 ブッダの修行の目的は最初から、〈たった一人でいかにストレスフリーな生活を送るか〉、つまり、いまの言葉でいえば、〈いかにソロ充ライフをきわめ、幸福を得るか〉

にあった。 

 そして一切のとらわれから解放され、心からソロ充ライフを楽しめる境地に達したとき、それを、

〈悟りの境地〉

 とブッダは名づけました。

   ブッダがこの〈悟り〉を得た直後にかわしたある会話があります。『サンユッタニカーヤ』という古い経典に登場するものです。

「いったいあなたは何が悲しくて、森のなかで一人瞑想しているのですか?

村で何か悪事でもはたらいたのですか?

なぜ人と付き合わないのでしょう?

あなたはだれとも友達にならないのですか?」

これに対してブッダは答えます。

「わたしは楽しい悟りをたった一人で味わっている。

それゆえに、わたしは人と付き合わない。

わたしはだれとも友達にならない」

 まさに、元祖ラーメン亭ならぬ、〈元祖ソロ充〉ともいうべき発言です。

  日本では仏教というと何やらストイックなイメージが先行しますが、ニーチェはこの〈ソロ充〉的側面をとらえて、仏教を〈快楽主義者〉の哲学だとのべています。

〈ソロ充〉に似た言葉に〈ぼっち〉がありますが、〈ソロ充〉には自分から進んでそうした生活を選んだゆとりのようなものが感じられます。

〈網にとらえられない風のように、泥水に汚されないハスのように、サイの角のように一人歩め〉

 とこれも『スッタニパータ』という古い経典にでてくるブッダの言葉です。サイは一角獣であることから、「一人わが道を往く」生き方のたとえにその角が使われることになりました。

〈ソロ充〉志向の人は日本人にも昔からいたし、逆に〈ソロ充〉的要素のまったくない人は珍しいでしょう。

 SNSなど〈つながり〉が大切にされる時代に〈ソロ充〉が市民権を得たのは面白い逆説です。

人とのつながりを仏教では〈縁〉と呼びますが、どちらもあってよいし、なければおかしいということですね。