読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

No.13【IoTの時代と仏教(3)】

時事ネタと仏教

このアポリアは宇宙の「終わり」を問う場合にもあてはまり、「宇宙の終わり」を問うことは終わりの後の終わりへのさらなる問いかけを誘発し、論理的無限後退アポリアに直面することになる。 

 そしてこうした「時間」の果ての確定をめぐる議論は、「空間」についてもそっくりあてはまります。

 たとえば、「宇宙の空間的な果て」を追求する場合を考えてみましょう。

 そこで「果て」に何かを置いたところで、こんどは、ではその「果ての何か」の向こうはどうなっているかが問題になってくる。それに答えようと別の何かを置けば、こんどはその「別の何か」の向こうがどうなるかが問題になり、と終わりがなくなる。

  つまり、宇宙というモノは、人がいざその果てを追い求めようとすると、まるであざ笑うようにわれわれの手の先をすり抜けて逃げてゆく。

 べつの言葉でいえば、

「関係の無限連鎖」

 の彼方に行方をくらましてしまう。

 ナーガールジュナが主著『中論』の冒頭で、

「はじまりも終わりもないところの関係性の教えを説かれたブッダに敬礼する」

 とのべたときに真っ先に確認されたのは、時間と空間はこの「関係性への解消」のなかで一致するということ、つまり、この二つは、

「時空」

 という形でしか把握できないということだったわけですね。 

 また、ナーガールジュナの著作は『中論』だけではありません。

かれは『六十頌如理論』というべつの著作のなかでもこのモノの「果て」のテーマをとりあげ、

「モノが関係のなかで発生するならば、そのモノに前と後はあろうか?」

 とモノの「はじまり」と「終わり」について問いかけます。そのうえで、

「前後の限界などなく世界は幻影のように現われる」

 とのべています。 

  いうまでもなく「関係」自体には実体がありません。

関係のネットワークと化した世界とは、第一回目のコラム「『君の名は。』はとても仏教的」でも書いたように、「実体のあるものなんてどこにあるの? どこにもないよ」

という世界。

 これはAI、VR、ナノテクノロジーと〝シンギュラリティ〟銘柄のtechnology guruたちの美しいコラボが寄ってたかって招き寄せようとしている「幻影主義(イリュージョニズム)」 の世界です。 

IoTの心理的インフラが社会に出来上がった2016年にイリュージョニズムのシンボルともいえる「ポケモンGO」が爆発的に流行ったのは、じつに理にかなっていたと思えてきます。