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No.18【マインドフルネスのブームと仏教】(4)

時事ネタと仏教

 

一方、禅が問うのはまさにそのことです。

今は東洋の瞑想が海外の経営者にも流行しているということで、

少し前、これは『中央公論』(二〇一五年十一月号)というカタイ雑誌が「禅で克つ」という特集を組みました。

例によってスティーブ・ジョブズの話も紹介されていましたが、松山大耕さんという臨済宗禅宗)のお坊さんが、初心者がいきなり「リラックスできて気持ちのよい」のは禅じゃないと力説していました。

 その通りでしょうが、ただ、この点で正直言って禅はすでに負けているのではないか。

というのも、「マインドフルネス」瞑想を社員研修でうけたりセミナーに参加している人は「リラックスして気持ちがよくなりたい」からきているのであって、

「自分とは結局何か?」

 なんて哲学的な問題をつきつめる気持ちなんて初めからないからです。

 松山さんは、本当の禅は初心者には「リラックスするどころか痛い」とのべていますが、そんな「痛い」思いをしてまで「自分とは何か?」にこだわりたい人はマニアでなければ初めからお坊さんになる人でしょう。

 問題の二つめは「マインドフルネス」が柱にしているヴィッパサナー瞑想自体の出自に絡むものです。

 これは別のところで書きましたが、テーラワーダ系のお坊さんは、これがブッダが「悟り」を開いたときにおこなっていた瞑想と同じものだと主張しています。

 そして、わたしの知るかぎり、日本の禅のお坊さんたちもこれについては反論しようとしません。

 反論しようにも、実際、経典にはかれらの主張通りのことが書いてあるからです。

 お坊さんというのは、「経典は間違っている」とは口にできない職業です。

 経典に書いてあることは正しいと言わざるを得ない。

 が、本当を言えば、ヴィッパサナー瞑想は、ブッダが亡くなったあとにかれの後継者たちが開祖の瞑想を土台に精錬させ、洗練したシステムにまとめたものです。ブッダの「悟り」の瞑想法ではありません。

経典はブッダが亡くなったあとでお弟子さんたちが作りあげたものですが、ヴィッパサナー瞑想がまとめあげられたその時点でブッダの素朴な瞑想とはずいぶん違ったものになっていたはずです。

 したがって、ヴィッパサナー瞑想は本当は「悟りの瞑想法」を主張できないのですが、問題はその先にあります。

 というのは、一般の人々にとってはマインドフルネスの出自などどうでもいい。

 ましてやヴィッパサナー瞑想の出自などもっとどうでもよいでしょう。

 そんなところで「ヴィッパサナー瞑想はブッダの瞑想と関係ない」と言ったところで「そんなの関係ないよ」で終わってしまう。ふりあげた拳の下ろしどころがなくなってしまうわけです。

(To be continued.)