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No.26【清水富美加さんと仏教】

 

 なんだか笑えるタイトルですねェ。

 と書きながら、わたしも笑っていますが。

 今回のコラムでとりあげるのは清水さんご自身の話というより、彼女が使った、

〈出家〉という言葉についてのトピックです。

〈出家〉とは、「世俗との関わりを断ち、僧侶になって修行生活を送る」ことを宣言する行いのことです。

 清水さんは「わたし清水富美加は、出家します」と宣言しながら、「女優のお仕事も続けてゆくつもりです」と語っています。

 そこで、「そんなのは出家でもなんでもない」とその「バカさ加減」(原文のまま)をあざ笑うネットの論客たちもでてきました。

 ですが、この話を徹底的に議論し、追求していった場合、一番微妙な立場に立たされる人々がいるのをごぞんじでしょうか?

 日本のお坊さんたちです。

 というのは、日本はそもそも本来の意味でのお坊さんが存在しない仏教国だからです。

「ええっ!?」と思われるかもしれませんが、ホントの話です。

 というか、これは日本の仏教研究者の常識に属する話で、

〈日本仏教の在家主義的性格〉

 として昔から論じられてきたものでした。

〈在家〉とは、〈出家〉に対する言葉で、ここにいう「家」とは「世俗の家」のことです。そこには家族がおり、妻や子供がいます。

 実際、日本のお坊さんたちの場合はどうでしょうか?

 ほとんどの方が立派に奥さんをもち、子供を育てていませんか? つまり、どうみても〈在家〉の生活をいとなんでいるわけで、また世間の人々もそれをみて全然不思議に思ってない。そんなものだと思っている。 

 じつは、これはスゴイこと、仏教史上の「革命」に属することなのです。

 それは仏教の創始者のブッダ(お釈迦様)は、〈不犯〉(セックスをしないこと)

 を〈出家〉の条件にしたからです。

 事実、タイやミャンマーチベットなど他の仏教国のお坊さんたちは一生を独身で過ごします。

 日本ではこの掟(「戒律」と呼びます)がなぜか守られず、平安時代の末頃には、お坊さんが妻や妾をもち、父親になってもだれもあやしまなくなりました。 

 そんなわけで、一部の仏教学者からは、日本は「エセ仏教国」だとの手きびしい発言が飛びだしたりするわけですが、これはどうでしょうか?

 日本仏教が〈大乗仏教〉という紀元前後に成立した(※ブッダが生まれたのは紀元前六世紀です)「革新派」の仏教に属することは、以前、わたしのコラムでとりあげました。

 この「大乗」というのは「万人を救うための大きな乗り物」を意味する言葉です。

 一方、それ以前の仏教は、ブッダ自身もふくめて、〈出家至上主義〉の立場から、この世で救われるのは出家者たちだけだと説きました。 

 そうした考え方に異議を申し立てて、

「出家、在家を問わず、すべての人々は平等に救われる資格をもつ」

 と主張したのが大乗仏教

 お坊さんが結婚する日本の仏教は、この大乗仏教がたずさえていた〈大衆的性格の側面〉を極北にまで押し進めた、文字通り独自の次元を切り開いた仏教だとも言えるのです。 

 要するに、これは違いの問題であって、良し悪しの問題ではないというわけですが、「違う」といえば、清水富美加さんの〈出家〉先の『幸福の科学』グループの総裁・大川隆法さんは〈清水富美加の守護霊〉を呼び出して意義深いインタビューをなさったとか。

 べつにいいですけど、一言だけすると、ブッダはいわゆる「霊魂」の存在については、「あるかないかわからないものは論じても無意味」という立場から、修行者は議論自体にかかわるべきでないとしました。

 要するに、これも「違う」ということですね。

 日本はスゴイ国です。