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No.27【『騎士団長殺し』を読んで】

時事ネタと仏教

 

 主人公が失踪者の捜索をめぐって異世界にコミットするという村上さんの長編の「王道パターン」を踏んだ作品ですが、その異世界が「有」-「無」の境界を超えた、「関連性」を構造原理とする「メタファー」の世界であるという所が村上さんならではだ、と思いました。

 ただ、『風の歌を聴け』以来の十三の長編を貫いていた「実在論的世界観」vs「唯名論的世界観」を軸とする「往きつ戻りつ」の格闘が影をひそめたこと、その代わりに既発表の長編の「見せ場」を回顧的に再現し、配列したような「フラット感」が印象に残りました。

 全二巻仕立ての長さのわりに小じんまりとした感じとなったのはそのせいかもしれませんね。

*    *    *

【以下、読後感を箇条書きで】

■『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で「沙羅の樹」の足元に戻ることにより「一巡」してしまった村上さんが次にどう打って出るか。読者は、新たな展開や「裏切り」の予測を楽しみつつ、わくわくしながら待っていたわけですが、村上さんはお馴染みの回転木馬をあっさり追加的にもう一巡りして終えてしまったという印象です。

■『ねじまき鳥クロニクル』の古井戸、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の地底探検、『海辺のカフカ』の祠の石、生き霊、「イデア」の独り歩き、『アフターダーク』の「顔のない男」、『国境の南、太陽の西』の怪談、『多崎つくる』の性夢、色彩(「白」)への偏執といったアイテムが、わりと緊張感なく並べられ、埋め込まれています。それが結果的に「回顧的」な雰囲気を醸すことになったのかもしれません。

■今回、作品の内容以上に「長さ」の問題を読者に感じさせることになった理由は、まりえの父親の描き込みの不十分さに由来するものと思われます。「新興宗教」(この言葉自体もう時代遅れです)の活動に関わり、インドへの旅行経験があり、「輪廻」の研究に没頭しているという話が伝聞の形で記されていますが、因縁の土地との関わりの深さからみて本来ならば「牛河」並みにページを割かれてしかるべき人物だったでしょう。

■あるいは同じく宗教団体を扱った『1Q84』の二番煎じを回避したいとのことだったのでしょうか? この父親を加えて全三巻のボリュームを与えていれば、不足感は充分に免れたかと思われます。

■また、そうすれば、彼の位置からみて『ねじまき鳥クロニクル』的な歴史的暴力の相続vs浄化のテーマを、雨田画伯の「ナチ体験」や「南京虐殺」と有機的にリンクさせることもできたと思います。

■騎士団長が「飛鳥時代」の男という設定も、『春雨物語』との関係で微妙な齟齬感がありました。飛鳥時代仏教は受容されてはいましたが、日本仏教に「即身成仏」が登場するのは平安時代空海以降です。西洋風のタイトルをもつ日本画という設定は一向にかまいませんが、せめて院政期以降の中世、あるいは江戸時代にまで下げた日本画中の男、という設定にすべきではなかったでしょうか?

■村上さんが出発点にした「唯名論」の世界観は、その原理上、「垂直的コミットメント」にたえず水をさし、フラット化する作用をもちます。

■今後、新しい展望を得るには『1Q84』のキリスト教的な「神」の存在を導入するしかないのではないか。そうでなければ、追加的な二巡、三巡の「旋回」が待ち受けているだけではないか。あらためてそんな感想を抱きました。

 

以上、気づいた点をざっと並べてみました。さらに突っ込むと色々と面白い論点がでてくるかもしれませんね(2017.2.25.9:25am)

※本コラムは、私が主宰するWEBサイト「村上春樹仏教」の「連載/村上春樹篇」にも公開しました。

※当ブログは、週二度のペースでコラムを掲載しますが、次回「ポリティカル・コレクトネスと仏教」のコラムは、都合により3月13日の掲載になります。ご了承下さい。