読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

No.29 【クロモフォビアからみる『騎士団長殺し』】

 

 村上春樹さんは「白」という概念に強い関心を抱く作家のようです。

 しかもそのあつかい方には共通した特色がみられます。

 たとえば、一九八五年に発表された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。

 そこでは、気がつくと「街」と呼ばれる「完全な無」を実現した異世界に迷いこんだ主人公の姿が描かれます。

「街」で主人公があてがわれた「官舎」は「二階建ての白い官舎」で、「見わたす限り何もかもが白」の家並が白い砂利道沿いにどこまでもつづく世界の一画に暮らすことになります。

 また「インターネット世界」をめぐる現代の寓話として読まれることの多い二〇〇四年の『アフターダーク』では、「純粋な抽象概念」で出来たという「あちら側」の異世界が「空白のほかには何も見えない」空間、「色のない空間」とともに登場します。

 そしてこの作品で、「デジタル社会」の無機性をになう人物として現れる暴行犯の会社員の名は「白川」です。

 村上さんが作中人物の名に「凝る」ことはよく知られていますが、名をめぐって思い出される作品といえば、長編としてはひさしぶりに「リアリズム小説」に針を振った二〇一三年の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』があります。

 そこで主人公のつくるを生き地獄に叩き落す「悪霊のとりついた」元同級生の名は白根柚木、仲間からは「シロ」と呼ばれる女性でした。

 また、つくるは自分の名前に色彩を示す文字が欠けているゆえに自身を「空っぽの人間」と感じる過剰な自意識に悩む人間として描かれていました。

 このように春樹の長編作品における「白」は「空白」をめぐる不安を喚起するものとして働きますが、同様の「白」の機能は最新長編の『騎士団長殺し』でも発揮されます。

 この作品には重要な脇役として「免色」という風変わりな姓をもつ元インターネット関連のビジネスマン(webビジネスマン)が登場します。

 かれは主人公の近所に「白い高い壁」に囲まれた「白いコンクリート」の邸宅に住む謎の五十男です。

 免色は「純白の」豊かな白髪の持ち主で、初対面のときは「真っ白なコットンのシャツ(主人公の表現によれば「ただ白いだけではない。真っ白なのだ」)を着て現われますが、かれと別れた後主人公はなぜか「ほんとうに空っぽ」になっている自分を発見し ます。

 免色は「数値」(アルゴリズム)のみが「価値」をもつ情報ビジネスの世界の出身者として、web業界の空虚を体現する存在として描かれますが、この免色という「色を免れる」、つまり色彩から見放された名をもつかれもまた、自身を「空っぽの人間」「ただの無」と感じることがあると告白し、多崎つくるを連想させることになります。

 その他、『騎士団長殺し』では、病死した主人公の十二歳の妹が「不自然なくらい白い」レースの襟のワンピースを着て、「色を抜かれたような」蛍光燈の光の下、「不吉な白い花」に囲まれた柩に横たわるのを主人公が目撃したこと、そしてパニックに襲われたことが物語られます。

 この場面で村上さんは、妹の遺体に「黒いベルベットのワンピース」を着せ、「黒いエナメルの靴」を履かせるのですが、結局ここで「白」を通して強調されたのはモノトーンの世界だったことがわかります。

 *   *    *

 これまで村上さんは十四の長編を発表しましたが、そのなかで「モノトーン」が小説自体のアンダートーンとなった作品として思いつくのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『アフターダーク』の二篇です。

 前者は「何もかもがあり、同時に何もかもがない」という「不死」(amata)の世界を描いて、デビュー作『風の歌を聴け』以来の流れをしめくくることになった記念碑的作品。後者は『海辺のカフカ』の後に書かれた、実体世界の最終的解体原理としての真空(void)の視点からみた「現実」と「異世界」との照応関係に焦点をあてた異色作でした。

 いうまでもなく「モノトーン」は両作品の異世界が醸すもので、「白」(ないし「空白」)は建物やそれをとりまく空間について用いられていました。

 本作品で「純粋なイデア」を名乗る「騎士団長」は、自分は「真空」を呼吸している存在だと語りますが、村上さんの長編で「真空」が「実体的な無」と実体解体原理(「空」)の二つの異なった意味で使われてきたことは、拙著『村上春樹仏教Ⅱ』で記したところです(同書第九章、第十一章)。

 村上さんは小説という世界の設計者ですが、実体世界の空間(建築)の分野で、「白」は、「モノトーン」「観念性」「抽象性」「ミニマリズム」等の概念とともに語られてきた歴史をもちます。

 それについては、英国のアーティストのデイヴィッド・バチェラーという人が、『クロモフォビア』(田中祐介訳/青土社)という本を書いています。

「クロモフォビア」とは色彩恐怖症をさす言葉ですが、『世界の終りと――』、『アフターダーク』、『騎士団長殺し』にみる「白」のあつかいは、作者の「白」に特化したクロモフォビアを感じさせるところがあります。

 村上さんの長編の「異世界物」では、現実/幻影をふくむあらゆる二項対立が廃棄された世界が好んで描かれ、その志向は今回の『騎士団長殺し』でも引き継がれます(「存在と非存在が混じり合っていく」/「これはあるいは現実ではないかもしれない。しかし夢でもないのだ」等の文章を参照)。

 バチェラーの前出の『クロモフォビア』は色彩論がテーマの書物ですが、その冒頭で、一九九〇年代の初め、招待された英国系アメリカ人の「大いなる白い内部」の邸宅のミニマリズム、「これみよがしの空虚」の支配する空間について語る文章がでてきます。

「この家の内部にあったのは……清潔、明澄で、きちんと整序された宇宙である。しかし、同時にそれは逆説に満ちた裏返しの世界であり、その世界では、開かれたものが閉ざされ、単純が複雑であり、簡明が混乱であった。それは、ほかの世界の存在の存在をすすんでは認めようとしない世界である」

 バチェラーによれば、それは「鼻につく空白」であり、

「考え抜かれた空虚であったけれども、とげとげしさも含んでいた」

「この大いなる白い内部が、たとえ物が充満していても空虚であるのは、そこにあるものがそこに内属せずに、たちまちそこからはじきだされてしまうからである」

 ミニマリズムと二項対立の解体は相性がよいようで、「白のミニマリズム」は文字通り、すべてがあるが同時にすべてがない世界を展開することになります。

騎士団長殺し』については「『騎士団長殺し』を読んで」という二月二十五日公開の文章で、「既発表の長編の『見せ場』を回顧的に再現し、配列した」おもむきがあると書きました。

 それ以上付け加えることはありませんが、一つだけ指摘するなら、この「配列」については、「白」が喚起する「空白」のイメージの二義性をめぐっても言えるということです。

かつて勝原晴希さんが]村上作品における「ない」の多義性を指摘していました(「不在・欠落/次の闇が訪れるまでに」『村上春樹』至文堂所収)が、一言で言えば、ここでの「空白」には「初めからの不在」と「喪失」の二つの比喩が託されます。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『アフターダーク』は異世界の原理としての「初めからの不在」が前面にでた作品でしたが、『騎士団長殺し』はそれに『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』的な「喪失」をない混ぜた感があります。

 免色の「白いコンクリート」の建物やリビングにわざわざ「生け花」を咲かせ、「そこにはある種の温かみがある」と主人公に語らせた箇所があり、これは村上さんの本作品における「折衷的な」態度をよくしめしています。

村上さんの愛読者たちにとって、これまでの「異世界物」の二項対立廃棄の世界が踏襲されているぶん、いわゆる「村上らしさ」は充分に担保されているわけですが、この「空白」めぐる「中和」が、先を丸めた鉛筆でこれまでの長編世界のおさらいをしたという印象につながったのかもしれませんね。

次回の長編が待ち遠しいところです。(2017.3.15.14:00pm)

※今回の文章は、私の研究用webサイト「村上春樹仏教」の「連載/村上春樹篇」にも公開中です。

※当ブログの次の更新は3月20日です。