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№33【「ゼロの時代」と仏教】

 

 〈ゼロ葬〉という言葉があります。

 宗教学者島田裕巳さんが『0葬/あっさり死ぬ』(二〇一四)という著書のなかで提出した新しい死者の葬り方で、簡単にいえば、

「遺骨の処理を火葬場にまかせ、引き取らない」

 というやり方です。

 いわば葬儀における、

「究極のミニマル化」

 の提唱ですが、支持者も多かった反面、案の定抵抗をおぼえる人々もいたようです。

 島田さんは葬儀のあり方に非常な問題意識をもつ方で、『葬送の自由をすすめる会』の会長として、自然葬(海や山林への散灰)の普及運動の旗振り役をつとめてきましたが、〈ゼロ葬〉の提案には「ついてゆけない」と感じる向きも少なくなかったようで、二〇一五年に事実上会長職をクビになってしまいました。

 このように議論を呼んだ〈ゼロ葬〉ですが、この考え方自体は、島田さんの仏教をめぐる長年の知見にもとづくものです。

 日本仏教は歴史的にみてこの「ゼロ」という概念と縁が深い。

 日本仏教が属するのは仏教のなかでも大乗仏教という革新的な学派(スクール)ですが、この学派の看板概念が、

〈空〉(くう)

 つまり、「ものには実体がない」という考えで、この「空」はインド数学の「ゼロ」からきている概念であること、大乗仏教に「諸法空相」という文句がありますが、この「諸法」は「あらゆるもの」の意味、この四文字で「実体のあるものなんてどこにあるの? どこにもないよ」という意味になることはいつかのこのコラムでもふれました。

 *  *  *

 大乗仏教には禅仏教や浄土仏教などさまざまな流れがありますが、出発点は「空」思想です。

 このうち禅仏教は死後の世界について語らないので「空」思想と基本的に齟齬をきたしませんでした。

これに対し、極楽浄土やその主の阿弥陀仏阿弥陀如来)の教えを説く浄土仏教は、大変な苦労を強いられることになりました。

 あらゆるものが「空」、すなわち「ゼロ」であるならば、極楽浄土も阿弥陀仏もすべて「ゼロ」、幻影のようなものだ、ということになるからです。

 事実、他の理屈はでてきようがない。

 結局、極楽浄土も阿弥陀仏も――罪人の堕ちる地獄と同様――わたしたちの心のなかにあるのだ、という形で教学的には折り合いをつけたようですが、この「心」もまた「空」であることはいうまでもありません。

 さらに、「心」だけではありません。「心」の器である「身体」も「空」。

 人間の「自己」とは一般にこの「心」に「身体」を合わせたもの、「心身」のことだとされますから、大乗仏教によると、

「そもそも自己なんてあるようにみえるだけの話。本当はゼロなんだよ」

 ということになる。

 もちろん大乗仏教は、人間はだれもが「ゼロ」としての「自己」(「自分自身」)という運命を平等に分かち持つ、だからいとおしい存在なのだ、たがいに共感をもって生きるべきなのだという考え方をとるわけですが、他方ではまた、人間はしょせん歩く石ころにすぎない、まして滅び去った石ころにこだわることになんの意味があるのか、という発想もでてくるわけです。

 島田さんの『ゼロ葬/あっさり死ぬ』に登場する、

「(われわれは)死者とともにある必要はない」

「死者とともに生きないという選択は、自らも死者となった後に生者とは生活をともにしないことを意味する」

「(そうした立場の)人間にふさわしい死に方があり、死後の処理のされ方がある」

 といった文章には、人間にまったく期待しない醒めた「ニヒリスト」の達観のようなものを感じることがあります。

 島田さんはどこかで、もはやどっちでもいいと思っているのではないか?

 *  *  *

こうして「空」的な人生観において、他者への共感と期待値のミニマル化とは紙一重なのですが、AI(人工知能)やAR(拡張現実)のテクノロジーがIoT(いつでもどこでもインターネット&コンピューター)のシステムと結びつくときなにが起きるか?

「もの/人間」あるいは、「現実/幻影」の境目の感覚は日々流動化し、曖昧になる。

 IoTが「もの」という「もの」に虚構の「人格」を許し、人がそれを空気のように受け入れるとき、万物に〈ゼロ〉の相互浸透の原理が働く、

〈ゼロの汎神論〉

 を感性の柱に据えた社会が到来することは、充分に想像のつくところです(というより、もうすでに到来しているかもしれません)。

 最近、国際政治の分野で流行した、

〈Gゼロ〉

 という言葉があります。米国の政治学者であるイアン・ブレマー氏の提唱によるもので、国際秩序に責任をもつ国家がなくなる、ゼロになることをさして使われるようです。

〈空〉的な世界観になじんだ(なじみすぎた?)わたしのような人間には、これだけでもう、「面白い時代がやってきた」と思うところですが、「ゼロ」があつかい方しだいで「なんでもアリ」のアナーキーな暴力性と結びつきがちなことは、哲学概念であれ政治概念であれ、変わりはありません。

 島田さんの〈ゼロ葬〉への抵抗感がこのアナーキズムへの忌避感情にもとづくものならば、〈Gゼロ〉への警戒感にも大いに理由があるということになります。        ※次の更新は4月3日です。