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№34【スマホと仏教】

 

 電車なかでスマホの代わりに本を読むと「異彩を放つ」時代になったのはいつごろからでしょうか?

 と書きながら、こういう問いかけ自体がもう古臭くなっていることを痛感しますが、

「朝から晩までスマホばかりのぞいて若者は馬鹿になっている」

 というのは世界中どこの国でも偉い先生たちの日々の嘆きになっているようです。

 なかでも、これを「若者の宗教離れ」の文脈で深刻にとらえているのが米国の一部のキリスト教関係者らしく、

スマートフォンなどの情報ツールが神(God)を殺した」

 と言った人までいたとか。

 たしかにいったんスマホに「ハマって」しまえば、「神」のことなど考えなくなるという心理はわかる気もしますが、日本ではこれと同様の問題は生じないでしょう。

 なぜなら、第一に、日本にはキリスト教の「神(God)」のプレゼンスがほとんどない。

 第二に、日本人にとって「神(カミ)」は、とっくの昔から、あくまで心の中にいる存在になっているからです。

「笑う門(かど)には福来たる」という言葉がありますが、「信じる心に神宿る」という発想ですね。

 このように「神」や「仏」を、

「心の構築物」、

つまりフィクションだとみなす考え、これは一般に、

「唯心論」

 と呼ばれる立場に属しますが、それが仏教の伝統からきていることは、あまり気づかれていません。

 

 日本が大乗仏教の国であること、大乗仏教が「空」思想から出発したことはすでに以前のコラムでのべました。

〈空〉とは――しつこいようですが――「ものは固定的で不変の実体を欠く」、つまり「ゼロ」であるという考え方ですが、人間が「ゼロ」なら「神」もまた「ゼロ」。

 日本が仏教の土着化(思考の基盤への浸透)の最後の総仕上げをおこなったのは江戸時代です。

そのころには、

「神は空名なり」

 という言葉がすでにありました。

*  *  *

「空」思想をのべた最古の大乗経典に『八千頌般若経』があります。

そのなかに、

「仏は名のみの存在である」

 という有名な言葉がでてきます。

「名のみ」とは「実体がない」ことをさし、いわゆる唯名論に立つ言葉ですが、その名前もまたわれわれの心の作品であることに着目すれば、そのまま唯心論に転化します。

「神は空名なり」は、この「空」思想をそっくり「神」にあてはめたものです。

 また、

「イワシの頭も信心から」

 ということわざは有名ですが、江戸時代、江戸の庶民の間で大流行したお伊勢参りも、実際には信心を口実にしたレジャーというのが実態でした。

わたしは、スマホ片手にパワー・スポットめぐりを楽しむ若者たちの表情に、〝神々との遊戯〟の現代版の匂いを感じることがあります。

 あえて詩的に表現すれば、そう、『スカイ・クロラ』的な〈はかなさの永遠〉のセンチメントを漂わせた、「ゼロの汎神論」の遊戯の世界。

 人間が「ゼロ」なら、そのクローンも「ゼロ」。二つを分けるものは何もない――。

 アニメの「聖地巡礼」のブームは、作品上のキャラクターを、

「二次元世界の神」

としてつかのま戯れ、また戯れる自分を楽しむところに成立するのではないでしょうか?

 わたしはスマホのなかった昭和の時代を知っていますが、昭和の頃からものなど考えない人間が大半でした。馬鹿と思われたくないので考えるふりをしていただけです。

 江戸時代の人々も似たようなものだったでしょう。

スマホの発明はこの虚栄心から人々を解放しました。つまり、幸福にしたということですね。      

※次の更新は4月6日です。