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№36【分子輪廻と仏教】

 

 人間は死なない。いや、正確にいえば死んでも生まれ変わりつづける。

 一部の分子生物学者によると、これは科学的に動かしがたい事実だそうです。

 日本は火葬の国(日本の二〇一七年度の火葬率は九九・八%!)なので、それを例にとりましょう。

 人間が死んで火葬場で焼かれる。するとその身体の成分のほとんどすべて(九六%)はH2OやCO2など目に見えない無数の分子になって、煙突のなかから大気中に拡散してゆきます。

 このH2OとCO2が太陽の光をうけて光合成を起こし、炭水化物を作って、米や麦など植物の主成分となる。

 結局、人間はこの植物を食べて生命を保つのですが、いったん死んで見えなくなっても、分子レヴェルでは文字通り、「生命の連鎖」の営みを無限にくりかえしている、というわけです。

 生命科学に造詣の深い方のなかには、これを、

「分子輪廻」

 という面白い言葉で呼ぶ人もいるようで、これは『再生』という自然葬関係の雑誌の二〇一六年三月号で余語盛男さんが報告していました。

 

 輪廻(reincarnation)は古代エジプトギリシャをはじめ世界各地でみられた思想ですが、仏教をうけいれた日本では、なんといっても古代インドのそれが有名です。

 ただし、正確にいえば、古代インドの人々が考えた輪廻思想のなかで、「生命の連続性」は、あくまでそのもつ要素の一部にすぎません。

 この無限連鎖のプロセスに、「自己」および「因果応報思想」という二つのものが加わって、わたしたちがよく知る「輪廻思想」が完成されることになりました。

「因果応報思想」、つまり前の世の良き行いが後の世に良い世を、悪い行いが悪い行いをもたらすという考え方ですね。

 

 これは、おそらく世界で最も徹底的な個人責任論の形、「自己責任の無限連鎖」とでも呼ぶべき考え方ですが、その苛烈さを受けて、この輪廻という考え方からの脱出に挑戦したのが仏教です。

 その際、仏教の開祖ブッダ(紀元前五六三~四八三)は、輪廻という考えへのとらわれから自由になった境地を、

「涅槃」(ニルヴァーナ)

 と名づけ、その安息の境地を修行者のめざすべき最終ゴールにおきました。

 そして仏教は、その後の歴史のなかで、さらに展開をみせることになります。

ブッダの死から数百年過ぎた紀元前後に起きた、大乗仏教の誕生です。

これは、このブログのコラムで何度も論じた「空」思想を出発点においた革新派の学派(スクール)でしたが、その学派で最初に固有名詞が伝えられた理論家がナーガールジュナです。

 日本では龍樹という漢訳名で知られていますが、そのナーガールジュナが『因縁心論』という一問一答式の著作のなかで、こんなやりとりをかわしています。

 

 問う――一体、何がこの世からあの世に行くのか?

 答える――原子ほどのものも、この世からあの世へは移らない。「空なるもの」から「空なるもの」が生じるというだけである

 

 つまり、人間はもともと「空」(ゼロ)なのだから、死んだところで何も変わらない。「ゼロ」が「ゼロ」に移るだけだよ、とこの切れ者理論家は言うわけですね。

ナーガールジュナはこうして「もの」の時間的変化を「もの」の「ゼロ性」を理由に否定しましたが、同様の理由から「もの」の空間的な変化も否定しました。

ここに、「ゼロの汎神論」世界が生まれることになるわけですが、ブッダが輪廻という考え方からの自由をその教えの中身にしたことはさきにのべた通りです。

が、ブッダの生前時、「空」という概念は未発達のままで、さすがにここまで徹底的な主張はなされなかった。

 大乗仏教が革新派と呼ばれるゆえんですが、ナーガールジュナの主張が輪廻思想の先鋭な否定、「ゼロベースからの解体宣言」を意味したことはいうまでもありません。

 おかげで、ナーガールジュナは、同時代の輪廻を信じるインド人からすっかり「過激主義者」あつかいされてしまいました。

 このナーガールジュナの「空」思想をコンパクトにまとめた経典が、日本の葬式で最も普通に読まれる『般若心経』です。

『般若心経』は「自己」は「空」(ゼロ)であり、生も死もないということ(だけ)を説いています。

 そう説くことで、肉親の死の悲しみを癒し、自分にいつか訪れる死への不安の解消を願ったわけですね。

 わたしたちには「仏教には輪廻思想がつきものだ」というイメージがあります。

 が、わたしたちの先祖が葬式で読まれるのを最も望んだ経典の一つが輪廻の徹底解体を説くものだったことは覚えておいてよいかもしれませんね。

※次の更新は4月13日です。