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№38【ポスト・トゥルースと仏教】

 

 禅には、

「不立文字」

 といって、究極の真理は言葉では表現できないという教えがあります。

 また、

「月を見たら指を切れ」

 という言葉もあり、これは『首楞厳経(しゅりょごんぎょう)』という経典にでてくる言葉ですが、ここにいう月は真理、指とは言葉をさします。

 要するに、

「真理をつかむのに言葉は必要である。しかし、真理は言葉によって仮に表わされたものにすぎない。そのことを忘れて言葉で表わされたものを真理そのものだと思うのはまちがいである。真理を悟った者は、すみやかに言葉を切り捨てなさい」

 と語っているわけですね。

 

 大乗仏教における「真理」が、世界が「空」であること、すなわち、「世界はゼロである」という宣言であることはすでにくりかえしのべた通りです。

 しかし、この「空」もまた言葉にほかならない。

したがって、この「空」もまた「空」のメカニズムによる、「ゼロ化」の運命をまぬがれない。

つまり、「空」は神聖な真理ではあるが、「空」という言葉自体はそれを仮に表現したものにすぎない。一度「空」を悟ったら、悟った者は「空」という言葉は捨てねばならない。

これは中国のお坊さんが言った「空を空する」という境地。

要するに、「空の底抜け」の世界ですが、仏教の教えがもつこうした、

「言葉のとらわれへの警戒」

 が結果として発達させることになったのが、経典の逆説的な表現法です。

 

 実際、禅宗が重用した『金剛般若経』などはそうした表現だけで成り立っている、ほとんど「奇書」と呼べる経典だといえるかもしれません。

 その表現のいくつかを紹介すると、

「『ブッダによって説かれたこの世界は世界ではない』とブッダは言っている。

だからこそ、それは世界と呼ばれる」

 また、仏教は「悟り」のことを「智慧の完成」とも呼びます。これについても、

ブッダによって説かれた『智慧の完成』は『智慧の完成』ではないとブッダによって説かれている。

だからこそ、それは智慧の完成と呼ばれるのだ」

 さらに、仏教で「真理」一般を意味する「法」についても、

「『あらゆる法というものはじつは法ではない』とブッダによって説かれている。

だからこそ、それはあらゆる法と呼ばれるのだ」

 

 こうした表現が読み手あるいは聞き手の言葉へのとらわれの粉砕をもくろむためになされたものであることは、いうまでもありません。

 江戸時代の有名な禅僧に白隠(一六八五~一七六八)という人物がいます。

 臨済宗の中興の祖といわれた名僧ですが、人を食った毒舌の持ち主としても知られていました。

 白隠は禅の教えを画にした「禅画」をたくさん残しましたが、その多くは達磨(だるま)和尚という中国に禅を伝えたとされるインド人の坊さんの肖像画です。

 達磨和尚は日本のダルマの置物のモデルとなった人物ですが、白隠は自分が描いた達磨の肖像画の一枚に、わざわざ、

「これは達磨ではない」

という自筆の言葉を書き入れた。

 これはシュルレアリスムの画家のマグリットがパイプを描いた自分の絵に、

「これはパイプではない」

いうタイトルをつけた話を想起させますが、まさに「指月の教え」の禅画ヴァージョン、「言葉への執着のいましめ」

を説くためになされたものです。

 

 さらに経典や画だけではありません。

 禅のお坊さんがおこなった禅問答。文字通りチンプンカンプンの代表とされる問答ですが、その目的も、わざわざ相手を混乱させるようなことを言って、相手を言葉へのとらわれから解き放ち、すみやかに目覚めへと導くところにありました。

 最近は仏教ブームとかでどの宗派のお坊さんもテレビのバラエティ番組にでたり、くだけた本も書くのもめずらしくなくなりました。

 が、それ以前は仏教のお坊さんのなかで最もおしゃべりで最も本をたくさん書くのは禅宗のお坊さんと相場がきまっていた。

「不立文字」を説く宗派の坊さんがしゃべり上手とは、とよくからかいのタネになりました。 

要するに、言葉の空しさを言葉を尽くして説くのが禅の「悟り」をうながす手法だったというわけですが、人間は結局言葉なしには生きてゆけません。

 

 最近、「ポスト・トゥルース」という言葉が世界的な流行語になっています。

 イギリス人のジャーナリストたちが広めた言葉だそうですが、二十一世紀の言説空間はSNSなどのテクノロジーによって底の抜かれた空間です。

 言葉のもつ「本来的な限界」、これへの不信はときとして「なんでもアリ」に結びつくシニシズムを生みます。

 そういえば、二〇一一年三月の福島原発事故のあと、福島県放射能汚染について大手メディアの一部もふくめてセンセーショナルな報道が目立つなか、他県との比較調査をもとに汚染の数値データについて最も冷静で「実証的な」報告をおこなっていたのが福島県在住の禅僧の玄侑宗久さんでした。

ポスト・トゥルース」や「フェイク・ニュース」といった言葉が流行するなか、言葉への適切な距離を保つスキルの持ち主は、案外、言葉が人間の思考にもつ意味を知りつくした禅のお坊さんのなかに見つかるかもしれませんね。

※次は4月20日の更新です。