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№39【ライザップと仏教】

 

 ライザップは仏教的にどう考えるべきなのでしょうか?

 なんだかバカみたいに聞こえるかもしれませんが、けっこうホンキモードな論点をふくんでいます。

「色即是空」

 という言葉があります。

 葬式でよく読まれる『般若心経』がメインフレーズにしている四文字熟語です。

「色」はインド語の「ルーパ」の漢訳(中国語訳)で「形あるもの」、 ここでは、とくに身体をさしますので、「色即是空」の四文字で、

「身体は空である」、

 したがって、

「そんなものにとらわれてはいけない」、

 つまり、

「コミットしていけない」

 という戒めの言葉になります。

 

 こう書くとこじつけと受け取られるかもしれませんが、ブッダがすべての修行者がめざすべきゴールだとしたのは、そもそも、「一切のとらわれからの解放」すなわち、

「ノン・コミットメントの徹底」 にもとづく「悟り」の境地でした。

 そこにあったのは、人間はとにかく「自己愛」の強い生き物だという認識。

 では、「自己」とはそもそも何か?

 それを形作るのは、せんじつめれば、「心」と「身体」、つまり「心身」と呼ばれるもの。

 ブッダによると、身体(「色」)は「心」とともに、もっともコミットしてはいけないものになった。

 これはブッダの死後、仏教の最も基本的な教えになりました。

 

 ところで、ブッダは、出家して修行さえすれば、だれでもこの「悟り」、つまり究極の解放の境地に達して救われるとしました。

 じゃあ、これに対し出家修行をしなかった人間はどうなるのか?  かれらもまた救われるのでしょうか?

 じつは、経典を読むかぎり、ここまでくると、

「ダメにきまってるでしょ」

 がブッダの答えでしたが、安心してください。

 こうした考えの是正をめざして、ブッダが亡くなって数百年たった頃、革新派の仏教が立ち上がりました。

 これがいわゆる大乗仏教で、日本仏教の主流となった学派です。この学派のお坊さんたちは、ブッダ以来伝統になっていた出家至上主義をエリート主義だと批判し、出家しようがしまいが万人が救われる資格をもつと説きました(「大乗」は「万人を救う大きな乗り物」という意味の語です)。

 つまり、ライザップのCMにでてふくらんだお腹を悲しげにさすったり、へこんだお腹を「どうだ」とばかりドヤ顔で示す森永卓郎さん(べつに森永卓郎さんでなくてもよいわけですが)も救われる資格があるということになった。

 こう書くと、何だかひどくラクチンなようですが、誤解のなきよう。ただ何もしなくてもよいというわけではありません。 

つまり、あくまで救われるための「資格」を得たというそこまでの話です。

 そのうえで、そうした有資格者となった人々が、

「救済の境地に至りたい」

と心から願う。そのとき目的達成のために不可欠とされた作業、それが、「世界は空であること」を悟るということでした。

 

「空」思想を説く大乗経典に、

「諸法皆空」(※「諸法」とは「世界」のことです)

 とか、

「諸法空相」

とか、「空」の「ありのままの真実性」の意味をこめて、

「諸法実相」

 といったフレーズがさかんにでてくるのはこのためですが、では「悟る」ためにはどんな心がけが必要か?

 そのヒントとなる言葉が『華厳経』にでてきます。

「初発心時、便成正覚」(しょほっしんじ、べんじょうしょうがく)

なにやらむずかしげな文章ですが、「初発心時」というのはゴールへ一歩でも近づこうした瞬間、「正覚」は「悟り」の意味ですから、文章全体で、

「悟りをめざして近づこうと日々思うことが悟りである」

 そうすれば、ライザップであろうが何であろうが、「とらわれずにとらわれる」、つまり、「とらわれない心のままにジムで汗を流せる」境地に達せるということになる。なるのですが……うーん、これまたややこしそうというか、「べつにとらわれたっていいじゃん」という感想もわいてきますが、そう考えるのはわたしが凡人だから。

 カメラの前で全国民にむかってお腹をさらす「覚悟」がもてるような人はまたちがうのかもしれない。

 つまり森永卓郎さん(べつに森永卓郎さんでなくてもよいわけですが)は人間にあるはずの「一線」を本当に「突き抜けて」しまっているのかもしれない。

 興味のある方は直接ご本人にご確認ください。

※次の更新は4月27日です。